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性被害からのフラッシュバックの恐怖にまみれた半生

はーい(^^)もこもこで〜す!
過去の記憶が戻って来たので、どこまで思い出せるか分かりませんが、とりあえずメモしてみますね。

トラウマの発生一一麻酔と恐怖

幼少期、実父の隣に寝かせられた寝床で毎晩性虐待を受けていた時は首の後ろのイボを取る手術をした時に似ていて、肉をえぐられている感触があるだけで痛みは全く感じませんでした。

首のイボ取り手術と違うのは、混沌とした朦朧意識の中で、誰にも助けを呼べない恐怖(パニック発作の様な、水の中で溺れているイメージ)に幼い自分はじっと無言で耐えていたことです。

父の出張で虐待が無い日は、言葉では表現困難な陰部の不快感に耐えられず、自分で父がした様に陰部を弄らないと、眠れませんでした。

当時、家族で川の字に布団を並べて寝ていて、私の反対側には妹が母の手を握って眠っていて、強烈な寂しさと絶望感を感じました。当時母の庇護下にあった妹には私は何も言えませんでした。

両親の大量飲酒

両親はほぼ毎日夕食の時に晩酌していました。父は仕事で飲み会が多く、泥酔して帰宅することは多数あり、飲酒したままバイクに乗り飲酒運転で何度か免停になっていました。

飲酒しては、お金のことでしょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩をしていました。父が口癖のように『家に火をつけてやる』と言っていて、怖かったです。

両親は、酒屋に酒の配達を定期的に頼んでいて、ビールはケースか箱買いでちょっとした居酒屋のような大量のお酒が常に物置にありました。大人になるまでこれが異常な事態だと気づいていませんでした。

幼児期の自殺未遂


私は性虐待のストレスから逃れるために、3-4歳の頃に母親の制止を振り切って、隣のアパートの2Fから飛び降り自殺を試みました。
アラフィフ の今でも鮮明に当時のことを憶えています。

自宅隣のアパートの2階の階段の床から軽くジャンプして頭から飛び降りた時、淡い水色のペイントを施した鉄骨の手すりと手すりから床に接続して居る縦の鉄骨が走行中の電車内から見る景色の様に加速度を増して縞模様のように私の視界をよぎって行きました。私の頭部が地面に近づいた時、全く痛みは感じませんでしたが、恐怖で目を閉じました。

私はそれから救急車で近所の病院に搬送され、麻酔無しで3〜4針額を縫合してもらったようです。
私の右の額には、当時の傷跡がアラフィフ になってもくっきり残っています。

祖父の首切り自殺の飛び散った血痕の記憶

5歳の時に、地方在住の父の父(祖父)が同居?の父の兄と金銭トラブルを苦に浴室で首を斧で傷つけて自殺。電話で一報があり、新幹線で両親に連れられて祖父の家に入ると、自殺した祖父の遺体が運び出された後の浴室には夥しい量の血痕が天井近くまで飛び散っていました。数日後、親類がデッキブラシでタイルにこびり付いた血痕を擦って掃除していました。なかなか綺麗に血痕を除去できずに手こずっていたようでした。

8歳時の変化


父の寝床での虐待は、8歳の時に郊外の新築一戸建てに転居後は両親、私と妹、兄とそれぞれ独立した部屋を割り当てられたので、父が直接私の陰部を弄ることは無くなりました。

その代わり、父は私や妹の着替えを部屋のドアをノック無しに開けて覗いたり、私の下着の汚れをチェックして洗いたがったりしていました。私のパンツがおりもので少しでも汚れていると、健康な正常範囲の汚れにも関わらず、父は鬼の首を取ったかの様に興奮して『こんなに汚しやがって!』と私に怒鳴り散らしていました。

時々母親と性行為をしていたようで、私は家族のゴミ捨て当番の時に、全部の部屋のゴミをゴミ箱から大きいポリ袋に移す際、母の部屋のゴミ箱から使用済みコンドームを見かけたことがありました。

郊外に転居後、父と寝床を共にしなくなった私の小学校3年の3学期ごろから、住宅ローン返済のため母は夜まで、父は深夜まで働く様になり、きょうだいは学校や部活に忙しいので、私は放課後自宅で退屈紛れに飲酒をしながらマスターベーションをして現実をぼんやりした妄想で誤魔化して過ごす様になりました。

飲酒や強迫的なマスターベーションが止まらず、学校の成績は下降し始め、小中は中の下から高校になると、成績ビリになりました。学校では孤立していましたが、ほとんど休まず皆勤に近かったので、落第せずに済みました。

転校先で友達が出来ず私の飲酒が始まる

私が生まれた海辺の工業地帯での下町生活は、陽気で暖かい雰囲気の近隣に恵まれて、当時幼児だった私は近所の幼なじみと夕方暗くなるまで外で元気に走り回ったり、リカちゃん人形で遊んでとても楽しく過ごしていました。

3-4歳の頃の自殺未遂の時は、幼児の自殺が理解されなかったのこともあり、家庭内事故扱いでした。

私が病院退院後は、何事も無かったかの様に近所の幼馴染と遊んでいました。

すぐ下の妹は、当時は内気な性格であまり外では遊ばず、(近所の子供からいじめにあっていたらしい)家の中で母の家事手伝いの洗濯物畳みと、オイルショックで父の収入が三分の一になってしまったため、収入増の為母親が同じ区内のキャリアウーマン女性の男の赤ちゃんを預かり、妹は母と交代で赤ちゃんの世話をして過ごし、母親のお気に入りでした。

私が小学校三年生の3学期に郊外の一軒家に転居後、転校先で放課後に一緒に遊んでくれる友達がいなかったので、退屈しのぎに飲酒が始まりました。

最初に飲んだお酒は、台所の赤玉ポートワインで、ぶどうジュースの様に甘くて美味しくて酔いが回るとぼーっとして寂しくて辛い気持ちがふっと楽になりました。

転校先の小学校は新興住宅地に位置していたせいか、人工的な住宅開発地帯で緊張した雰囲気の人々が多く、親の学歴が教師たちよりも高いので中学受験希望の多くの子供たちが放課後や土日に塾や習い事に忙殺されていて、学校よりも塾や習い事の人間関係の比重が高く、マンモス校でもあったので、先生の目が行き届かず学校で孤立している子供は当時割と多かったです。私の両親の教育方針は両親が高学歴だったこともあり、非常に教育熱心でした。学校の補習塾、ピアノ、水泳、書道などを子供たち全員に習わせてくれて私も習っていました。

当時両親は、住宅ローンの負担が重いせいもあり、子供たちは中高は公立で大学も出来れば国公立でと考えていたようです。

私は両親やきょうだい不在の放課後は、飲酒してぼんやりと過ごし、ワインが無くなると平気で親の財布からお金を盗んでワインを補充していました。両親は金銭に細かいので財布のお金が合わないとお互いを責め立てて夫婦喧嘩をしていました。

私は飲酒するようになってから、数ヶ月で視力が1.3から0.3に低下して近視用眼鏡使用になりました。学校では、自分の雰囲気を消す事に長けていたせいもあり、いない子扱いで学校で問題視されることはありませんでした。

両親が私を見る性的な視線の恐怖

私は痴漢などの性被害に遭うことが比較的に多く、小学校時代、母親と母方の祖母に痴漢被害を話した際に、『あんたが(痴漢を)誘惑したんだ』と怒り出して取り合ってくれませんでした。

母親の私を見る目つきがいやらしく、思春期で体形が女性らしくなってくると風呂上がりなど裸身を舐め回すような視線を向けることがあり、高校時代は銭湯に通う様になりました。

父親は子供部屋での着替えを覗くだけで、浴室には入ってくることは無かったと思います。

高校生の時、母親が『そんなの絶対嫌よ!』と浴室に入って来た父親に怒鳴る声が2階の廊下で聞いた時は、血が凍るような恐怖を覚えました。

服装やヘアスタイルなども自分は汚れていると思い込みから汚い感じにしていました。ある日、髪がボサボサの私を見た母親が『まるでレイプされたみたい』と私に怒り出し、非常に傷つきました。

セクシュアリティの汚染

母親と父親が私に向けるいやらしい視線が非常に辛いので、私は自分は本当は男の子なのかもしれないとベルバラ など男装の麗人系の少女漫画の影響もあって妄想して自分を慰めるようになりました。

母親の子供時代の虐待被害

『私が幼い時、近所に住んでいた独身の叔母に言う事を聞かないと灸(やいと)をすえてやると言われ、手足に線香を押しつけられた』と母親は時々苛立ちを抑えきれない様子で嘆いていました。

母の手足には、直径1-1.5cmの皮膚の凹みが所々にありました。よほど辛い経験だったのか、私たちきょうだいに体罰をしたことはほとんど無かったと思います。

心身がフラッシュバックに乗っ取られ操り人形と化す

その後、学校を卒業し、仕事や収入を得て実家暮らしでも安定して来た24歳頃から異常な性欲の様な異常感覚に悩まされるようになりました。一旦、フラッシュバックが始まると、トラウマを受けた時に感じなかったはずの欠落感や絶望感や皮膚、粘膜、筋肉の感触が大幅に増幅されて感じられ、制御不能なあまりの圧倒的な感覚に、自殺を考える程の苦しみでした。

私の半生は、40代でトラウマ治療を受けるまで、フラッシュバックに乗っ取られて、全く自由の無い操り人形の様でした。

例えば、私が今日はテニスをしたいと思っていても、陰部の肉がヒクヒクするフラッシュバックがやってくると、テニスの予定はキャンセルせざるを得ない。

私の操り人形スイッチが入るのを感じて、目付きが別人の様にギラ付き、出会い系サイトにアクセスしては、フラッシュバックの不快感を消してくれる、刹那の相手探しが始まる。

私の探していたものは、人間ではなく、筋弛緩薬や鎮痛剤的な関わりでした。

強迫的に名前も知らない誰かと会い、酔っ払ってセックスを繰り返す。不安になってメモ帳に会った人の特徴をメモしていた時期もあったが、当時東電OL殺人事件があり、もし自分が殺されたら証拠が残ってしまうと恐怖を感じて、そのメモ帳は捨ててしまった。

セックスの度に性感染症に罹り、性病科にしばしば通い、抗生物質をずっと服用していたら、ほとんど全ての抗生物質に耐性が付いてしまった。

仕事は絶対に休めないので、フラッシュバックの不快感に耐えながら必死で仕事していましたが、仕事中に一瞬、自分の名前さえ思い出せない健忘に襲われ、真っ白になったらどうしようと恐怖に怯えていました。

親密な関係を避ける 愛と拒絶

片思いの男の子は陽キャで頭脳明晰、スポーツ万能のとても素敵な男の子でした。私は自分自身を汚いと思い込んでいたので、中学の卒業式の日にラブレターを渡しましたが、返事は無く、付き合うことはありませんでした。

私のラブレターの内容は、『〇〇君のことは好きだけど、付き合えません』

今にして思えば、随分奇妙な愛の告白だったと思います。愛と拒絶。真逆の内容ですよね。

私は男性からモテたいけど憎いという、アンビバレントな感情にハマり込んで行きました。



とほほ、久しぶりに文章を書いてみたら、肩凝って来てしまいました(笑)

ここまで読んで頂きありがとうございます(^^)

今日は、空腹感に耐えられそうにないので、何か美味しい物でも食べて、自分にご褒美したいです♪

では、またね〜♬

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