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それじゃルーマニア人に伝わらないです

 以前、『俺が代』をルーマニアで公演をして以降、作品の作り方がけっこう大きく変わった。

 この手の話は自慢に取られると、童貞喪失した男の子がセックスを語るみたいなことになりかねないから細心の注意が必要なのだけれども(なにせ海外公演をしたと言っても、その一回だけしか経験はない)、とりあえず変わった。

 この作品をルーマニアで上演をする上で、ルーマニア人に「伝わるのか」ということがいちばんの課題だった。

 でも、それは僕らがルーマニアの憲法について全く知らないように、日本国憲法なんて全く知らないという情報の不均衡の話ではない。それは、ちょっとだけ映像と解説を付け足すだけで、まあなんとかなる。それよりも、僕らがこの作品において、何を表したいのか、そしてそのためにどんな表現方法を用いているかを明確にしなきゃならないというのが課題だった。

 もちろん、それ以前にも何回か上演している作品だから、ある程度の説明はできる。しかし、それは「ある程度」の「説明」に過ぎない。

 言葉が伝わらない場所で上演するというのは、つまり、声の音や身振りによって、ある意図が伝わらなきゃならないということだ。稽古の段階から、できるだけ、言葉の意味を外して俳優の出す音や声を聞くと、その伝わりは、とても「甘い」と感じられる。

 そんな時に、指針にしたのは、あるミュージシャンが、海外で外国人を相手に日本語で歌う時に「言葉の意味をより深く知らなきゃならない」というのをツイートしていたこと。言葉の意味が伝わらない人に対してパフォーマンスをするために、パフォーマーは、よりその意味をクリアに把握しなきゃならない。そうじゃないと、声に(身体に)、その意味は乗ってこない。

 つまり、それまでは、テキストを「読めているつもり」でしかなかったのである。それを、言語や文脈を共有する観客が(無意識に)補正しながら見ていた、ということになる。そして、それは言葉だけでなく、さまざまなレイヤーで起こっている問題であることに気づく。

 その公演以降、僕は基本的に日本人ではなくルーマニア人に見せることを前提に作るようになる。「それじゃルーマニア人に伝わらないですよね」というダメ出しをよくするようになった。

 ただし、弊害もある。

 俳優の演技は、『俺が代』にしても『しあわせな日々』にしても、ルーマニアの公演を境にパワフルでストロングなものになっている。手前味噌だけど、その変化は「驚嘆すべきほど」と形容してもいいくらいだと思う。けれども、その一方で、パワフルになりすぎていやしないか、とも思う。そもそも、僕はパワフルなものはあまり得意ではない。

 特に、『俺が代』という作品は、憲法を扱っているのだから、俳優という特定の人間にしかできないパフォーマンスではなく、そこに「俺」が入る可能性を感じられるものにしなきゃならない。そのために、ああだこうだいいながら稽古をしている。

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Yuta Hagiwara
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