「世界が闇に支配されていないと困る」しあわせな生贄たち。
しあわせな生贄は生きるために生贄になっている。
政府や大企業や資本主義などを、つまり、これまでのメインストリームを、まるで絶対悪であるかのごとく、壊れたラジオのように、いや、そのようにプログラミングされているかのように、ひたすら疑い、ひたすら叩くことに、生命である時間を費やす人々を眺めていて、なんとも言えない気持ちになる。
大きく捉えれば、反動を利用した主導権争いの燃料として消費されているだけ。火にくべられているだけ。
個々にフォーカスすれば、「正義」や「光」の免罪符をまとい、「進んで」「よろこんで」生命を捧げている自分に満足している。
わたしの目には、いま、そのように映ってしまっている。
しあわせな生贄。
本人が選択しているのであれば、それも一つの生き方であろうが、生贄になりたくない人たちを一方的に巻き込むのは、とても迷惑なことだと感じている。
しあわせな生贄たちは、自分たちが「正義」「光」であり続けるために、常に「悪」「闇」を必要とするようになるからだ。洗脳されているって、そういうことだ。
「正義」「光」の免罪符=自分の存在価値、となっている人は、生きるために生贄になることを余儀なくされている。
一気に燃え上がるさまざまな対立軸が生贄の居場所。
グローバリズムとナショナリズム。資本主義と共産主義。リベラルと保守。西洋と東洋。慣行農法と自然農法。AIと人間。物質と非物質。などなど。
長い時間をかけて、反動という形で用意されてきた、さまざまな対立軸が、パンデミックやAIのシンギュラリティなどに刺激され、あちこちで、一気に短時間に燃え上がっているのが、2020年代だ。
対立の過程で必然的に訪れるカオスからの調和点としての、何らかの統一された、カオスに疲れた人々にとって良く見えるものに、レールが引かれ、向かわされているのかもしれない。
対立構造の上に行けば行くほど、両極にまたがっていて、大損しないようにできている。
大きく損をするのは、最下層で最前線に立ち続けている人。両極の端と端に分断された人。
生きるために生贄になっている人は、たぶん、ここにいる。
しあわせな生贄の種。
そもそも、「正義」「光」の免罪符=自分の存在価値になってしまう人は、どういう人なのだろう。
生きづらさを抱え、現状に不満があり、自分ではなく、誰かの何かのせいにすることでしか、自分を保てない人。
他責性と被害者意識と自己憐憫が強い。
かわいそうなわたし。ねえわたしをみてよ。わたしは悪くないのにこんなに不幸せ。ね、かわいそうでしょ?なんてかわいそうなわたし!のループ。
そして、このループは、特別感を醸成する。
ありのままの自分=特別であることを受け入れてもらいたい、と思っている。
種に水をやる人がいる。
こういう人の身近には、その特別感をうまく刺激して、搾取して、利益を得ている人がいるはずだ。
実は、スピリチュアル系インフルエンサーの類が、これに当てはまっているケースがあるのでは?と考えている。
救世主思想は、人を簡単に集められるからだ。こんな世界からは自由になろう!という号令の下に、例えば農薬や西洋医学への敵視など、いかにも良さげな看板を出して人を集め、おのれが理想とする、例えば、縄文的な世界の構築を目指す運動に引き入れ、徐々にステルス教祖ポジションを構築する。
さらに、ステルス教祖同士でつながり合い、大きなムーブメントを引き起こす。
需要と供給がガッチリはまり、しあわせな生贄が生まれる。
このムーブメントは、時に、対立構造の一翼を担っている。
某政党と手を組んでいるインフルエンサーがいるのは、そういう仕組みだろう。
要は、需要と供給が、ガッチリハマっている。依存しあっている。
しあわせな生贄の出来上がり。というわけだ。
自分は、日の目を見られていない。幸せを感じられない。
そんな人に、こんなことがささやかれる。
世界は闇に包まれています。
闇の世界で生きづらさを感じている人は、実は光の存在なのです。
あなたが今、生きづらさを感じているのは、光の存在だからです!
とても稀な存在です!わたしも同じです!
ありのままでいい!
ともに闇に立ち向かい、光の世界をつくりましょう!
正しいのはわたしたちです!
まずは同じ周波数を持った仲間づくりのため、有料のオンラインサロンに。。。
実は世界が闇なのは、こういう仕組みで。。。
健康な身体が大切ですので、会員しか買えないこのサプリを摂取しましょう。。。
光の世界を広げるために、このサプリをお友達に広めましょう。。。
これまで、自分を含めて、誰からも肯定されなかった自分に、特別な役割が与えられたと感じたら、その世界観に身を置きたいと思うのだろう。それしかない!それが大正解!と思いたいのだろう。
生きづらさに苛まれている場合、このような感情を律するだけの、理性とか知性が、うまく機能していない場合も多い。
マインド・コントロールを、積極的に求めていくことになる。
世界は闇じゃないと都合が悪い構造。
自分の存在価値と結びつけてしまっている需要側から、世界は闇思想に基づいたこの関係性を断ち切るのは、積極的にマインド・コントロールされているわけだから、おそらく厳しい。
生きるために生贄になる選択をし続けることになる。
供給側(スピリチュアル系インフルエンサー側)が、供給を断ち切る、ということに期待することも、なかなか厳しい。
Win-Winと称して、本人の意志と称して、生きるための生贄から吸い上げることになる。
世界が、社会が、組織が、「悪い」。
そう思うことで、自分が肯定される。満たされる。自分が生きられる居場所があると感じる人がいる。
そういう人の居場所をつくることで、ビジネス的にも満たされる人がいる。
この構造の中で生きる人たちにとって、世界は闇で悪い世界じゃないと都合が悪いのだと思う。
革命の死者数。
最後に、救世主思想と結びつきやすい、革命を礼賛することへの疑問を呈しておきたい。
あのフランス革命ですら、実は、多種多様な評価がある。
「虐げられていた」第三身分たる市民が立ちあがって、「諸悪の根源」である国王その他の王族貴族を処刑し、「正しい」道筋を切り開いた。とロマンチックに捉えるのは、一つの見方に過ぎない。
最終的に得をしたのは、誰なのか。何なのか。広く深掘りする必要があるが、今ここで指摘したいのは、これ。
この激流の中で(1792−1815)、失われた生命は、一説によると、489万人。非戦闘員の犠牲者は、41%。つまり、200万人を超える。
インパクトとしては、国王と王妃のギロチンだろうが、20年ちょっとの間に、200万人の非戦闘員が生命を落としたという事実を、どう捉えるか。
戦闘員を含め、新世界のために必要な犠牲だったと、その時代に生きている人に言えるか。
「新世界のための必要な犠牲」枠に巻き込まれないために。
いま、新世界への移行を高らかにうたう人々はきっと、自分がそこにいても、自分の大切な人々が犠牲になっても、「新世界のための必要な犠牲」であると「前向きに」受け入れるのだろう。
わたしはとてもじゃないが、「前向きに」などとは捉えられない。理不尽へのあきらめと悲しみを、真っ当に持っている。
世界が闇に支配されている。そうじゃないと困る。
そんなしあわせな生贄たちは、「新世界のための必要な犠牲」枠を積極的に肯定している。
だからこそ生まれるであろう、彼らの過激で過剰な言動からは、適切な距離をとることが賢明だと思っている。
世界が光なのか闇なのか、そんな分別をしようとすることから離れること。これが、自由でありたい無力な市民にできる、唯一の対策かもしれない。
誰のことも説得していないが、ここまで読んでくれてありがとう。
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