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《身体》融和のためのプロトタイプ・パフォーマンス

はじめに

これは構想発表で披露したパフォーマンスになります。まずは以下の動画をご覧ください。なお、約5600字ありますので、お暇なときにご覧ください。

iamas関係者以外の方に構想発表について説明すると、今後こんな展開で作品制作・研究していきますと表明する機会で、発表+2日間の展示があります。その間に計6回パフォーマンスを行いました。以下のリストから6回分+リハ+上の動画が全て見られるので、物好きな人はご覧ください。でも全部みてもらうと変化が顕著で結構面白いと思います。
なお、面倒くさがって無編集なので、照明がついてヘラヘラヘコヘコする間抜けな姿も見られますがどうか見ないでください。

概要

私はエイトリングのパフォーマーとして、指で回す・腕を動かすという2つの動作の組み合わせ方の規則性/不規則性と、機械じみた動きの精密さが、パフォーマンスをより面白く見せるのに重要であると考えています。一方で、機械のように動かしたい気持ちとは裏腹に、制御しきれない自分の身体へのもどかしさを感じてきました。そこで本作品では、自分のリアルタイムの心拍を音として出力し、その音に合わせてパフォーマンスすることで、生身の《身体》を受容し、パフォーマーとしての《身体》との融和を試みました。同時に、鑑賞者にとってもパフォーマーの生身の《身体》に目を向けるきっかけとなり、観察者として、その人なりの解釈が可能なパフォーマンスを目指しました。

心拍の入出力の方法としては、「BPM」と同様に、耳につけたPulse Sensorで血流量の変化から心拍を測定しました。M5Stackを通してOSC通信でTouchDesignerに送り、心拍が閾値を超えたタイミングで心電図のような音を出力します。4拍1サイクルを125周し、500回心電図音が鳴るとパフォーマンス終了としました。

出ハケができるような環境ではなかった(学内の多目的室に照明音響機材を設置しただけ)ために、見せ方をちょっと工夫しました。まず観客はアシスタントから諸注意を受け、照明を落とした会場に入り、着席します。私はその時点で客席の前でスタンバイしています。観客が揃ったタイミングで照明をつけ、パフォーマンスを開始し、パフォーマンス終了後照明を消して、体験の終了としました。

また、技の繰り返しや静止、深呼吸など、通常パフォーマンスを作るときにはあまり入れない要素を取り入れることで、通常とは異なる心拍変動を意図的に起こす構成を試みました。

さらに深掘りする

パフォーマンスと《身体》

パフォーマンスしているとき、自分の身体には複数の《身体》が共存しています。自分が自覚しているのは次の3つです。生身の《身体》、パフォーマーとしての《身体》、キャラクターとしての《身体》。俳優さんでいうところの本名、芸名、役名、それぞれを負った《身体》というと想像しやすいでしょうか。それぞれに触れていきます。

生身の《身体》
これは、パフォーマーたる自分の生きている部分、パフォーマンスにはあまり表出させない部分です。呼吸したり、汗をかいたり、唾液が乾いたり、悩んだり、泣いたり、笑ったり、そんななまものな《身体》です。「わたし」はどうしようもなく生きていて、そのためにパフォーマンスをすることができています。ステージに立つことで衆目に晒されているものの、最も目につかない部分であり、みられることを厭う部分でもあります。

パフォーマーとしての《身体》
これは、パフォーマンスのために鍛え、作り上げた、鑑賞者に見られる《身体》です。今回のパフォーマンスでは、次に触れるキャラクターとしての《身体》を纏わず、パフォーマーとしての《身体》で挑みました。この話は後程書いていきます。

キャラクターとしての《身体》
パフォーマーとしての《身体》が被る皮、みたいなものでしょうか。そのパフォーマンスのために作り上げたキャラクターの《身体》です。「わたし」でもパフォーマーたる自分でもない別のキャラクターのイメージがあって、それを自身に憑依させている感覚です。衣装、表情、動きなどを通して、そのキャラクターを表出させます。

それぞれの関係性
パフォーマンス中の「わたし」が多重人格なのかというと、そうではないです。あくまで《身体》です。キャラクターとしての《身体》の裏側にあるパフォーマーとしての《身体》のさらに裏側にある生身の《身体》という関係になっているのですが、これらはパフォーマンス中常にせめぎ合っています。表出したいのはキャラクターとしての《身体》ですが、しかし自身の《身体》であることは変わらず、パフォーマーとしての《身体》を晒していて、汗や呼吸を止めることもできないため、生身の《身体》を全く見せない、ということもできません。しかし、観客はパフォーマンスがうまければうまいほど、パフォーマーとしての《身体》の纏うキャラクターとしての《身体》が見えて、生身の《身体》は透明になっていくような気がします。汗をかいたり呼吸を整えたりするのも、演出のように思えてくるのです。生身の《身体》が消えるほど、質の高いパフォーマンスとも言えるのかもしれません。

パフォーマーとしての《身体》でパフォーマンスをする
自分のパフォーマー像があまり定まっていなかった(キャラクターとしての《身体》があったために必要なかった)ため、生身の《身体》を受容するパフォーマンスであると同時に、パフォーマーとしての《身体》に向き合うことになりました。

普段から純粋にエイトリングパフォーマンスを楽しんでもらうために、無駄なものは極力削ることを意識しています。そこで、キャラクターを纏わないのであれば、動き回ったり表情を作ったりするのも必要ないのではないかという結論に至りました。衣装についてはすんなり決まりました。自身の葬儀に参列するとしたら、どんな格好をするだろうか?というのがテーマです。厳かな雰囲気がありつつも差し色の赤がアクセントとなっていて、とてもお気に入りです。そのような感じで、取り繕いはしないけれども雰囲気作りは手を抜かないように意識して、パフォーマーとしての《身体》を作りました。

パフォーマンスに対する姿勢

私がそもそもパフォーマンスを人に見せることをどういうモチベーションで行っているかという話をしていきます。
私にとって、人前でパフォーマンスをするのは結構苦行です。全く楽しんでいないとまでは言いませんが、そもそも楽しい行為ではないと思っています。ではなぜ?という感じなのですが、正直なところまだ明確な答えを見つけ出せてはいません。現状ベターな回答を3つに分けて、ライトなものから書いていきます。

質の高いパフォーマンスを作るために
私は大学に入って、ジャグリングに出会い、同時期にインターラクティブアートに触れました。その時期から、ジャグリングをテクノロジーを使って違う見せ方ができないかということを考えており、そのアイデアをかたちにする方法を考えていました。かたちにできたならば、発信していったほうがコンテンツとして発展する可能性が高まります。完成度の高いものを作ろうとしたとき、人に見てもらうというのは自然な流れなのだと思います。

パフォーマンスの他者性
パフォーマーとしての《身体》、キャラクターとしての《身体》を通して、他者を装うことで「パフォーマー」になることができ、ステージに立てるのだと思っています。ステージに立っているとき、自分は自分ではない存在になっており、そうなれるのは、(実際どう感じたかは置いておいて)受け入れてくれる観客という存在が必要なのではないかと思います。

しかし、今回の作品は、パフォーマンスを「自分事」として向き合わざるを得ませんでした。生身の《身体》を曝け出し、パフォーマーとしての《身体》で観客に向けてパフォーマンスをする。正直言って構想発表で6回パフォーマンスをしたときは、体力というより精神的にかなり消耗しました。めちゃくちゃ身を削るパフォーマンスなのです。優しくしてください。

パフォーマンスの自傷性
じゃあなんでこんな身を削るようなパフォーマンスをしているんだということなのですが、私はパフォーマンスをゆるやかに死に急ぐ行為だと思っています。私の願望は苦しまず早めに死ぬことなので、パフォーマンスという自傷行為を続けていられるのだと思います。

マリーナ・アブラモビッチの《Rhythm》のシリーズをご存知でしょうか?

自身を傷つけたり観客に傷つけられたりするかなり衝撃的なパフォーマンスアート作品なのですが、なんというか、すごくパフォーマンスだな、と思います。パフォーマンスそれ自体が自傷行為的側面を持つというのはこれまでの話でなんとなくわかってもらえるのではないかと思います。もう一つ言及したいのが、観客の暴力性です。刺すような視線という表現がありますが、相手にその気がなくても視線や反応に攻撃的なところを見出したことはありませんか?受け取り手次第といわれてしまえばそれまでなのですが、《Rythm 0》はその暴力性を表出させたものだと思います。鑑賞行為は攻撃性を秘めており、パフォーマーの恐ろしいまでの寛容さが、このパフォーマンスを成立させています。ただ、この攻撃性を引き出したのはパフォーマーであることは忘れてはいけません。結局パフォーマンスは、観客からの攻撃も含めて自傷行為なのです。一人では辛いから、他者を巻き込んでしまうのかもしれません。

これはあくまでわたしの考えですし、こんなことを考えているんだな、と思いながら見てほしいわけではありません。フラットな気持ちで鑑賞してほしいです。よろしくお願いします。

儀式としてのパフォーマンス

このパフォーマンスは、「わたし」のための《儀式》としての側面を持ちます。生身の《身体》を受容する儀式です。さらにいうと、生身の《身体》がパフォーマーとしての《身体》に受け入れられたとき、生身の《身体》はパフォーマーとしての《身体》へと昇華されます。生身の《身体》とパフォーマーとしての《身体》の区別がなくなった状態になるのが、この儀式の最終目標なのです。つまりは、2つの《身体》の統合であり、生身の《身体》の死とも言えます。そういった意味で、喪服のような衣装を選びました。
同時に鑑賞者にとっても、生身の《身体》の存在に気づき、その統合を見届ける儀式です。
どうなったら統合したと言えるのかはまだ聞かないでください。うまく言えないので。

楽曲利用に対する問題意識

私は常々使用する楽曲に引っ張られてパフォーマンスを作っていると思っていました。これは別に悪いことだと思っておらず、むしろ曲に助けられている部分は大きいと思います。曲の展開があることで、パフォーマンスの展開が見ている人に伝わりやすいし、明るい曲だと見ている人も反応しやすい。また、好きな曲であれば、その曲でパフォーマンスするということがモチベーションになったりします。だからこそ楽曲の支えを失ったパフォーマンスってどうなるんだろうという好奇心で、今回のパフォーマンスに取り組んでいるところがあります。

楽曲を使わずにどうパフォーマンスしようと考えたとき、少なくともテンポは決まっていないとエイトリングはやりにくいです。そこで、自分の身体を音を出力する装置として扱うことにしました。
身体でリズムに変換できるところを考えたときに、心拍だなと思いました。まあその前から心拍を使用した作品を制作してきたのですが、この作品は心臓のリズム=心拍がベストだと思っています。
また、今回のパフォーマンスにおいて機械的な音(心電図音)を使用しているのは、自分の身体を音を出力する機械として捉えているからです。最後の長いピー音は心電図が止まったときの音です。心拍という生々しいものに対して無機質な音と組み合わせることで、ちょうど良い具合に緩和されているのを期待していたりします。

パフォーマンスの時間感覚

パフォーマンスを見ているとき、あっという間だった、という風に思ったことはありませんか?圧倒されていたらいつの間にか終わっている、みたいな経験も大変有意義なのですが、もっとじっくりその時間を味わえて、その後もちょっと後を引くようなパフォーマンスを作れないものかと思っていました。

このパフォーマンスは、時間も構成もきっちり決まっていません。一回きりのパフォーマンスです。任意の数心拍音がなったら終了する、というアイデアをいただいたとき、なるほど!と思いました。ありがとうございました。今回のパフォーマンスは、既存の曲を使っていない上に、心拍で終了するタイミングが決まるため、パフォーマンスがどこまで進行したのかがわかりません。500回心拍音が鳴ったらパフォーマンス終了と言われても、500回数える人はそういないでしょう。心拍が早ければすぐに終わってしまったり、逆に心拍が遅くてめちゃくちゃ長かったり、パフォーマンスの展開の予想がつかなかったり、毎回構成が変わったり、など不確定な要素が多数あることで、じっくり味わえるものになったのではないかと感じています。こういった要素が、パフォーマンスを見る時間の付加価値となればと思っています。

今後の展望

いただいたフィードバックや自分の感想などは、あまりにも長くなってしまったため、また後日投稿することにします。ここからは宣伝です。7/23-24開催のopenhouse2022にて、本作品をアップデートしたものを披露します。2日とも13:00開始となります。ぜひ現地まで足を運んで見に来てください。なお、主目的はオープンキャンパスなので、IAMASってこんなところなんだな、というのもわかると思います。

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