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「触れ合うことで」

身体が触れることで何かを感じる時。
痛みや温かさや冷たさ。
そこに加えて、奥にあるムズムズした感じ。

愛情を伝えるときの身体のふれあい。
キスやハグ。
手を繋いだり、セックスをしたり。

前回は、ことば、を愛情表現という視点から考えた。
今回は、からだ・ふれあい、を考えたい。

恋人や好きない人と手を繋ぐと、
私は、なんとも言えない高揚感を感じる。
そうでない人、嫌いな人とそういったことをすると、
気分が悪くなる時もある。

しかし、慣れってのは恐ろしいもので
手を繋いで当たり前になったり、抵抗がなくなったり。
トキメキと呼ばれるモノの量が減ってしまう。

それでもセックスはするんだろうし、キスだってする。
キスはまだしも、セックスは手間がかかるのに。

そこを気にしないで、したいと思える、してあげたいと思えることが
愛情があるってことなのかな。手間に対して、億劫ながらも行動したり。

キスが好きなのか・セックスが好きなのか。
恋人は私ではなく、”それ”が好きなのか。

はたまた、なぜ私は恋人を好きと言えるのか

一体、そこの差を、そう感じ取っているのだろうか。
性欲があるとするならば、それは、よくのはけ口でしかないのではないか。

それを、好きな人、とするのが正しいとされている
私は、どっちでもいいとは思うのだが、
一人との関係に飽きることもあるように思う。
別の人として、改めて好きになるような価値観もわかる。

私が旅行をして、自分の住む土地を改めて、いいな、と思える感じかな、とか。

結論、今の私の考えからすれば、
生きている中で最難関だと思う、信じるってことなんだろうが。

カタチのないものを表現しようと、からだが触れ合って、
それをカタチのない”信じる”という行為にまとめてしまう。

解決したように見えて、ただクルッとまわって
何も変わらず落ち着いて見えるだけ。

意味をつけることとか、何かを信じたり考えたりするのは、
すべて、自分にしかできないことである。
しかし、今は出された意味を、意味としてしまう人が多いと思えるのも事実。
改めて、自分で意味をつけようとすると、それ一つの意味を変えると
他の事柄の意味も変えなければならないこともたくさんある。

からだが触れるのは、キスをするのは
唇と唇がつくことでしかないのに。
すごく、相手に近づいた気になる。
気になれるなら、いいと思う。

素直というのか。相手からの”それ”をそのまま、
面と向かって受け取るというのは、
オモテだけ、受け取ってあげられる、ってことが信じるに近づくことかな。
自分自身もそれができたらなと。

そこに真も偽もないならなって。
ないことにできるならって。思います。

ほんとはそんなものないのにね。

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