一場の夢と消え 松井今朝子著
本書は近松門左衛門の生き様を描いています。その前に作者を紹介したく思います。松井今朝子氏は早稲田大学大学院研究科演劇学修士課程を修了して、松竹歌舞伎座に入社、後故武智鉄二氏に師事歌舞伎の脚色、演出を手がける、生家は京都祇園の料亭で文楽の太夫達が訪れていたので、幼い時から人形浄瑠璃を聞いて育ったとのことです。作者しか書けない作と思います。父が主家を致仕し京都に居を構えた二男の杉森信盛は、後水尾天皇の実弟、一条昭良卿落飾出家した恵観禅閣に仕え、物覚えが良いのを認められ書庫番の役目を与えられた。そこで古事記、大鏡、史記、和歌集や源氏物語等が数多の貴重な写本に目を通すことができ書き写すことさえ黙認されていた。主の死後信盛は禅閣の伝手で、三井寺こと園城寺の別所となる近松寺へでも僧にならずにいた。三年後禅閣のところで親しく接してくれた正親町中将公通に近松寺で遭遇する、そなたここで一生終える気かと言われ。正親町中将のところに食客の様な扱いで世話になる。そこで麿に代わって浄瑠璃の案文を書けと言われる。案文を頼まれたといっても期限があるわけではなく、気が向いたらという程度の依頼だったので、当座はまさしく徒然なるままの執筆に過ぎなかった。にもかかわらず物語の大枠を決めて主役を作れば、そこに恋人が敵役が登場して、登場人物が勝手に動き出して話がどんどん進んでいくのを止められずに、信盛はただそれを書き留めるばかりに。五七五の歌詞を綴っても俳諧とは違って、そこには現世からかけ離れた個別の世界に生きる苦楽があったが、どんな嫌なこと恐ろしい悲しい出来事が起きようとさっとそこから逃げだして現世に戻れた。逆に現世で退屈したり嫌なことがあれば逃げ込める。そこの居心地の良さに惑溺し夢中になりその快楽から逃げ出せずにいて、自らの筆が紡ぎ出す世界の虜にいつしかなっていったという。書いた浄瑠璃が1683年宇治座で初演されて、武家に生まれた杉森信盛が芸の世界に足を踏み出していく。竹本義太夫と出会って人形浄瑠璃文楽に新しい花を咲かせ。また初代坂田藤十郎と出合い元禄上方歌舞伎の一時代を築き、歌舞伎作者として活躍するが再び人形浄瑠璃に戻って書いたのは曾根崎心中、実際にあった出来事をもとにしても構想力に秀でていて、近松の言葉は語彙力が並大抵ではない飛び抜けた知識人であったので、浄瑠璃を豊かなものにしたと作者は言っています。没後三百年の今も繰り返し上演されて私達を楽しませてくれる。また当時作者の名前は表に出ることがなかった。近松が初めて発行される浄瑠璃本に作者として名前を載せた、近松門左衛門というペンネームの由来は恵観禅閣死後に世話になっていた、近松寺から姓を名は寺門を潜った身なので門左衛門、近松門左衛門とする。元禄から享保、綱吉から吉宗までに百本の作品を残した。武家に生まれて芝居の世界に足を踏み入れる事は並大抵なことではなかったろう。わが国の誇る文化、人形浄瑠璃、歌舞伎の史実をもとに虚と実を緻密に練り上げる物語を書いた劇作家。日本のシェイクスピアと言われる人の実人生。作者の渾身の芸道小説と新聞に評されています。お勧めします。当時の上方の芸能界の事1が読めます。新春歌舞伎を鑑賞したばかり、この本を読んで近松を見たくなりました。1653年誕生ー1724年没
近松の主な作品、曾根崎心中、国姓爺合戦。冥土の飛脚、女殺油地獄、心中天網島、世継曾我、平家女護島、傾城阿波の鳴門、堀川波鼓、出世景清。因みに、1701年あった赤穂浪士討ち入りを芝居にした、有名な仮名手本忠臣蔵は1748年大阪竹本座において人形浄瑠璃で初演され、人形浄瑠が先でその後歌舞伎になった。近松は耳したが書いてはいない、江戸の出来事なので興味がなかったのか、又は書けなかったのか。お上にかかりあう事件なので芝居にするには、五十年近くの時がいったのかもしれません。