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王朝序曲 上下 永井路子
時は宝亀五[七七四]年奈良の都に、三人の嬰児が生まれる、嬰児の父親の一人は光仁天皇の皇太子山部、もう一人は称徳女帝死後の皇位争いの中、故女帝の違詔を振りかざして他の候補者を跳ね飛ばしそれまで名も上がっていなかった廃れ皇子白壁光仁天皇を強引に皇位に押し込む荒業をやってのけた藤原百川、嬰児は子宝に恵まれなかった百川にとって四十三歳にして得た息子。山部の第一皇子名は小殿後の安殿、百川の長子名は緒嗣。三人目の嬰児は差し当たってなんということもない存在、彼の未来に何かを予感させるものは皆無なぜなら嬰児の父内麻呂は二十一の若者。同じ藤原の一族とはいえ羽振りのいい良継、百川兄弟とは家筋も別で決して官界で注目される男ではなかった。輝きに満ちた安殿、緒嗣という星に比べれば三番目の星の光はきわめて弱い。翌年もう一つの星が生まれる後に真夏、冬嗣と名乗る年子の兄弟、若き藤原内麻呂の家に年子の男児が生まれようと、世の中の人は誰も目にも留めていなかった。天武が壬申の乱で天智の皇子大友に勝利して以来、皇位についたのはすべて天武系の皇族、百年ぶり皇位についたのが天智系の光仁天皇、既に六十歳を過ぎていた。百川はその気性の激しさを持っている皇太子山部に期待し天智の再来として賭けていたからだ。そして宝亀十一年[七百八十年]父光仁天皇死去により山部即位し桓武天皇となる。桓武天皇の生母、高野新笠は渡来系の和氏の出身で百済王の子孫と称している。渡来系の女性を母とする皇子の即位は今までない。皇太子に定められたのは山部の同母弟早良親王当時兄弟相続が行われた。早良付きの東宮大夫は、万葉の歌人大伴家持である。桓武の初政の行政改革は、小気味がよいほど切れ味が良かった、定員以上の官員の解任、敢然と打ち出された造寺造仏の停止は、聖武、光明、孝謙らの仏教への傾斜に対する露骨な批判であった。ここまで徹底的に奈良の都を打ちのめしておいて桓武は宣言する[もうここには用がない、予は都を捨てる]時延暦三[七八四]年、新都は山背国乙訓の長岡と定められてから、遷都が行われるまでたった半年の素早さだった。この素早さは計画が即位当時、それ以前から練りあがれたものと思われる。藤原真夏、冬嗣兄弟二人の母も百済王氏永継その本拠地は、新都となった長岡の近くの良峯にありその邸は豪奢だった。先祖は藤原鎌足天智帝を助けた大忠臣その子は不比等、その娘が光明皇后と四人の兄弟たち武智麻呂南家、房前北家、宇合式家、麻呂京家兄弟の先祖は房前北家であった。都移りしたころから母は新しい内裏に出仕しだした、桓武の生母が渡来系だったことから百済王氏系の女性がどっと宮仕えに出た。母は体を壊ししばらく宮仕えを休んだ、やがて元気になりまた宮仕えを始めた。家に帰る日が稀になりちょっと御用があって、良峯の実家にいます言伝が度々聞かされる。ある日母はにこやかに戻ってきたいよいよ華やかさが加わった母の腕に見慣れない嬰児が抱かれていた。冬嗣そなたの弟よ、そうか母君は身ごもられたので実家に帰っておられたのか、名前はなんて[安世王]安世王だってそれが俺の弟だなんて、そんなもやもやを引きはがしてくれたのは真夏、弟と言ってもあの赤ん坊は父君の児ではない、やっぱりそうだったのか妙に安心した気持ちなった時、真夏は声を低め[帝の児だよ]父君は承知だよ。増悪、怨念と言おうか桓武の胸の底には奈良朝歴代天皇へ執拗な対抗意識がある。歴代はすべて天武系で天智系の皇族はずっと無視されていた。それが風向きが変わって天智系の廃れ皇子だった父光仁が即位した、血統の革命がなされその後を継いだ桓武は天武系の遺物は新都には持ち込ませない。長岡宮使の百川の甥藤原種継暗殺され、皇太子早良親王は廃される。長岡京を造営半ばで桓武は捨て平安京へ。皇太子は桓武の長子安殿親王。この物語は藤原北家の真夏、冬嗣兄弟に視点あてて進行する、桓武から平城そして嵯峨へ権力と愛欲が繰り返される中を上を目指す、兄真夏は平城天皇に仕え、冬嗣は平城の弟賀美野親王に、縺れるあう兄弟の愛憎、異父弟で帝の子安世王は良峯の姓を受け良峯安世となり賀美野親王の無二の側近、皇太子安殿との骨肉の相克に命をすり減らしていく桓武。次元の違うところに立っていて、どうにもならない親子。愛憎が渦巻きそこに権力が絡んでいるんだからすざまじい。平安遷都七九四年、八百六年桓武天皇死去七十歳、皇太子安殿親王即位平城天皇である。皇太子は賀美野にそしてたった三年の在位で賀美野親王に譲位嵯峨天皇だ。冬嗣は最側近となる、帰朝した空海も側近に加わる。平城上皇復位と平城京遷都を企てる俗に言う薬子の変。こうして権力と愛欲の葛藤が繰り返され嵯峨朝がはじまる。冬嗣の政治運営が嵯峨を支え嵯峨は権力としてでなく象徴としての存在の道へ、しかもこの権威は権力として冬嗣と密着している。また嵯峨の恣意的な政治介入がなかったゆえに冬嗣の政治改革が、徐々に効果を生み四百年近い平安時代の幕があがっていく様子が物語られています。権威と権力が別れながらも密着している。象徴的天皇制の形祖もここに求められるのかと作者は書いています。冬嗣の娘順子女御となり嵯峨帝の息仁明帝との間に文徳天皇を生み、冬嗣の息良房が妻に迎えたのは嵯峨帝の皇女で臣籍降下した源潔姫、娘明子も女御となり文徳天皇との間に清和天皇が誕生す。冬嗣一家は天皇家と融けあうかたちで長い間政権を握りつづける。叡山に精舎を開いた最澄は叡山で修行しそのまま叡山で受戒し一人前の僧侶と認められたしと上申するが、東大寺南都が猛反発しかし最澄の死後、受戒権を叡山に戒壇創設の勅許を下ろし、南都が唯一平安京に優越して保持していた受戒権を骨抜きにした。南都は地盤沈下をし桓武が奈良における政治と仏教の癒着から脱却すべく遷都してから三十八年、これより叡山は藤原氏と結びつき平安京を支える宗教的権威となりしだいに重みを増していったのだろう。
平安朝の幕開けを描いています。一読をお勧めします。