宗教や信者が無理になった理由
8年ほど前に夫が亡くなった。
しかし、それでも私は宗教というものを崇拝できなかった。
仏壇の前で手を合わせることも、お経を読むことも、無意味だと思いながらやっていたんだけど、それをおおっぴらに人には言えなかった。
だって、ただでさえ
「お前のせいで死んだんだ!」
「お前と結婚してなかったら癌になんかならなかったのに!」
って言われてるのに
そこに
「私、宗教とかどうでもいいんで(キリッ)」
みたいなこと言ってしまったら、もうこの世から迫害され、十字架に縛り付けられ火炙りの刑にされるでしょう?
「旦那さんが亡くなったのにこの嫁は何を言ってるんだ!」
「旦那が可哀想だ!」
とみんな言うでしょう?
人生最大のストレスと感じるランキングで不動の第一位に君臨するのが“配偶者や恋人の死”であることなんて知りもしないような人達から四十九日後から罵声をあび、未だにどこかで会っても私の挨拶や会釈をシカトして、私の家族に嫌がらせまでしてくるような人もいる中で生きている私は、宗教を信じていなければならない存在である。
しかし私には、難しかった。
きっかけは、単純だ。
交通事故に遭った際の加害者が宗教にドンハマりしてる人だったせいだ。
5歳の時に、玄関の前で車にはねられた。
忘れもしない幼稚園年中さんの時。
自宅の前で生まれてはじめてBBQをしようと父がせっせと準備していた。
ちなみに道民はBBQなどとはいわない。焼肉と呼ぶ。以下お見知りおきを。
裕福ではない我が家にとってはなかなかのイベント。家族全員が浮かれていた。
私と1つ下の弟は外を走り回り、玄関とその前にある物置の車一台通れるだけの道を何度もアホみたいに往復した。嬉しかったあの記憶は忘れない。
私達が住んでいたのは町営のボロボロの団地だった。
近所の人はよく庭や玄関先で焼肉をしており、うちもやりたいねとなり、外焼肉デビューの日だった。
他の家と同じことができる!みんなと同じだ!いつもなんか違うけど今日はみんなと同じだ!そう浮かれていた私は、隣の棟から出てきた車にビュンとはねられてしまった。
雨上がりで地面が柔らかかったことが幸運で、骨折することもなく、口の中が切れて手足に擦り傷はできたが命を落とすことはなかった。
ただ、全身打撲で3ヶ月自宅で寝たきりにはなった。当たり前だ。5歳の下腹部にバンパーがガッツリ当たり数メートルフッ飛んだのだから。
お金があまりない家特有のあるあるだが、我が家は病院に行く癖がない。
「寝たら治る!」それでしかない家だ。
とはいえ流石に救急車を呼んだ。
泣きながら父が救急車に乗り、母は幼い弟と妹と泣きながら待っていたそうだ。
骨折もなく全身打撲だけだからと、入院はせず自宅療養となった。少しずつリハビリのように家の中を歩き、トイレへ行けるようになり、回復していった。
人をはねたら警察が来るし、罰があるのが通常だ。
ましてや隣の隣の家に住んでいるのだから幼い子供がウロウロしてることくらいわかるだろうに。
しかも私達と同世代の子供が3人か4人いる父親だったのに。本当に愚か者だ。
我が子が車で撥ねられたら豚箱へ行け!と加害者を警察につまみ出すのが通常の人間だと私は思うのだが、私の親はどこかのネジがとれているのかお人好しなんて言葉はこの世からなくなれはいいような対応をした。そう、示談にしたのだ。
私をはねた相手は父の仕事の付き合いがある会社の人で私の弟の同級生の父親だった。だからって示談かよ。バカなのかよ。
「仕事がしづらくなるのは嫌だったし、「金もないし家族もいるからどうか示談にしてくれ」と頼まれたから」というのが父の言い分。わからなくもないが示談かよ。バカなのかよ。
そして示談というものを理解しきれていないけど、示談にした父は、
「示談にしてくれてありがとう。お礼です」
と、アイスクリーム(ミルク味10本入)を貰い、私が回復したら何事もなかったかのようにお互い振る舞ったとのこと。バカだ。
そして今でもその人のことを家族はみんな恨んでいるし、私はその時におきた卵管の捻れで不妊治療も経験したし、今も時々体調が悪い。家族全員があの時あんなにバカじゃなかったらと悔やんでいる本物の大バカだ。
そのアイスクリーム示談オジサンのせいで私は宗教が無理になった。
アイスクリーム示談オジサンを受け入れてしまった我が家の両親。ただ、オジサンにとっては本当にアイスクリームはただのお礼だった。
本当の示談金は、
「私達はお金がないので払えません。
なので私達のパワーを毎日娘さんに送らせてください。私達のエネルギーを娘さんの回復に役立ててほしいのです。」
両親は何を言っているのかよくわからなかったけど、「わかりました」と言った。バカかよ。
そこから私の地獄の数ヶ月が始まった。
朝6時頃、夕方6時頃、アイスクリーム示談夫婦は毎日家にやってきた。
そして片手で首から下げているネックレスのようなものを握りしめ、私の身体に触れるか触れないかの距離でずっともう片方の手をかざし続けた。
頭から足の先まで朝は夫婦で、夕方はオジサンだけで、私の全身に毎日1時間ほど手をかざし続けた。
オジサンは大工だった。
夕方来るとすごく汗臭く、そして木屑の匂いとタバコの匂いで、子どもながらに鼻の息を止めて口で息をしながら終わるのを待った。
熊のように髭だらけで、頭に白いタオルを巻き、眼球が出ているタイプのお顔立ちだったので目を見開いているかのように見えたその目でこちらをじーっとみつめながら1時間手をかざされ続ける。臭くて、見た目も不潔なオジサンが5歳の少女に1時間手をかざし続けるというおぞましき光景。
両親は「うわーきも!」と思っていたと大人になってから聞いた。ふざけんなよ。
どうして助けてくれなかったのか?と聞いたら、ゲラゲラ笑いながら「そんなに嫌だったの?笑 ただ手かざされてるだけなのに?爆笑」みたいな感じだった。最低だ。
それから私は
・何かを信仰している人
・何か見えないものに頼っている人
・見えないものを信じている人
・宗教
・水晶
・ヒーリング
・波動
・エネルギー
・民間療法
これらが、どうしても無理になった。
夫が亡くなった時、阿弥陀如来が〜とか色んな話を聞いたがやっぱりダメだった。
見えないものに縋っていて、本当のものが見えていないのがヒシヒシと伝わってきて気持ち悪く感じるのだ。
セミナー講師をやっていると、スピリチュアル信者で周りが溢れている。
世の中の誰も見たこともないいわば伝説のキャラクターである龍に守られているとか、助けてもらっていると延々と話す人も無理だ。
「私は龍は信じているけどアイスクリームと手から出るパワーで示談にしようとはしない!」
と言うかもしれないが、結局は願ったり祈ったりするだけだろ?と思ってしまう。
私にはアイスクリーム示談オジサンと同じにしか見えないのだ。
私がこのように宗教や見えないものを信仰する人が無理になった経緯を話しても、
「トラウマが邪魔して本当の貴方を生きれていないだけ。本当の貴方を生きれる時がきたら、わかる。」
とか、
「今のあなたには必要ないだけ。人間は分子力学で証明されている通り、波動とエネルギーが密接に関わっている。必ず必要になる時がくるから焦らないで。」
とか、言われまくってきた。
いつか私もみんなと同じように信じることができるかなぁ…信じることができない私は何か足りないトラウマを抱えたダメ人間なのかなぁ。そう思ってきたが、違うとはっきり思うようになった。
そんなものに縋って生きるのは自分を生きていないと勝手に思っている。
スピリチュアルなものや宗教、そういったものがないと自分の存在意義がわからないのだろう。
そこに生きているだけでいいのに。
龍に守られているから今日いいことが起こったわけではなく、あなたの魅力が今日良いことを起こしたのだろうに。
神社にお詣りに行きまくる人も、寺の檀家としてお金を納めまくってる人も、宗教にお布施を払いまくってる人も、私の中でどうしてもダメ。
勝手にやってくれる分にはかまわんけど、アイスクリームを示談のお礼にして、エネルギーでお金を払ったような気になっていたあのご夫婦だって、真光さんにお布施を払ってるんでしょ?
寺じゃないから檀家とは言わないのか?わかんないけど、定期的にお金払ってるよね?
でも車でひいた5歳の子にはお金は払わない。
治療費も払わない。何事もなかったかのように暮らし、普通に仕事の知り合いとして父に話しかけてくる。なんだこれ。
みえない何かに縋る人も、教祖に縋る人も、救われないと思ってしまう。
そんなことよりやることあるだろ!
そんなものより見たほうがいいものあるだろ!
と思ってしまう。
信じられない私が変なのかと思いながら過ごしてきたけど、信じられない性格になってよかった。もしスピリチュアルや宗教を取り込んでしまう人なら、夫が亡くなった時なんてヤバかっただろうな。何にどのくらい金をつぎこんだだろうか。
聞こえもしない夫の声を代弁する変なババアに金を払い、家に骨もないのに仏壇を置き、祈ってもらうためだけに金を払い、見えないものに縋って見えないものに金を払い、大切な娘の為ではないものに金を溶かしていたのだろう。こわい。
よかった。スピリチュアルが嫌いで。
そして何より亡くなった夫は生前お坊さんにお布施を上げるのを嫌がっていた。
「一応お経はあげるけど、これは残された人のこ気休めでしかないと坊が言ってた。死んでるんだから無駄なんだとよ。でも気持ちの行き場がないから、お経読んでごまかすんだとよ。お経なんてどうでもよくて、話しかけたい時に心の中で話しかけたり、写真に話しかけたりすればいいんだとよ。死んだけど、心の中では生きてるって。いつ話しかけてもいいんだって坊が言ってた。仕事だから金はもらうって言ってた。だから俺は宗教はどうでもいい。畑と海に骨を粉にして撒いてくれればいい。」
と元気な時に言っていた。
夫は大好きなじいちゃんが死んだ時にお坊さんに色々聞いたり、周りに聞いたりしたらしい。
「墓に行かないと会えないのか?仏壇がないとダメなのか?もしそうなら俺がじいちゃんの骨をもらっていつも持って歩いて話しかけようと思うって言ったら坊が教えてくれた。」と。
その言葉はじいちゃんへの愛で溢れていた。
まさか死ぬとは思ってなかったから
「わかる!私もそうされたい!子供に墓も仏壇も残したくない。海に撒いて何回忌とかやらないで死んだ人間のために金なんて使わないでほしい。」
と言った。
夫は「お前わかるやつだな!」ととても可愛い笑顔で笑ってビールをゴクゴク飲んでいた。
宗教やスピリチュアルが嫌でもいいという人と結婚したのに、死んでしまったおかげで宗教やスピリチュアルが嫌いなのはダメなのではないかと悩むというバカみたいな人生。
あー、私なにしてんだよ。