024.うさぎ文庫

『ぐりとぐら』『ちいさい おうち』『ひとまねこざる』『ちびくろさんぼ』『シナの五にんきょうだい』『おおきなかぶ』『ちいさいモモちゃん』『いやいやえん』『ちいさなうさこちゃん』…、昭和40年代前半(1965〜70年頃)、近所に子ども用の本や絵本を貸してくれる「うさぎ文庫」がありました。

子ども心にも、そこは不思議な空間だと思っていました。「うさぎ文庫」はまったくの普通のお宅の6畳の居間が、そのまま小さな図書館になっていました。毎週土曜日、もしかしたら隔週だったかもしれませんが、土曜日の午後になると、子どもたちは庭からそのお宅の居間に上がり込んで本を借りたり返したりしていました。

そのお宅は2階もありましたが、1階にはその6畳の居間と、キッチンとトイレとお風呂しかないのでした。ですから、壁中すべて本のお宅の住人は、普段はそのお部屋で食事をしたり生活をしていたはずなのです。テレビはなかったように思います。

確か月謝制で、ひと月子ども1人50円だったという記憶があります。入会したら自分の名前の書かれたカードを作ってもらえました。昔よくあった図書館の貸し出し方法と同じように、うさぎ文庫のすべての本の裏表紙の内側には、縦横10センチくらいの黄土色のポケットが貼り付けてありました。

そのポケットの中には書名の書かれたカードが入っていて、借りる時にはそのカードと自分の名前の書かれたカードを出すと、ぼんやりとした記憶によれば、書名のカードには私の名前と貸出日(返却日?)が記入され、私の名前のカードにも書名と貸出日が記入され、2枚のカードは一緒にうさぎ文庫の五十音順の名前カード入れに保管され、本のポケットには返却日のカードが差し込まれて貸し出されたように思います。

「うさぎ文庫」の心優しい主催者のおかげで、私は世界各国の素晴らしい物語に囲まれて育つことができました。小学校2年生の時に、おともだちの家に遊びにいったら「少年少女世界文学全集」がずらりと並んでいて、私も欲しいと母にねだったら、母に「返却日があるから本は読むものなのよ」と言われ、「なるほど、そうか」と思ったことがあります。

後年、母にそのことを話したらまったく覚えていなかったので、多分その場しのぎで言ったのでしょうが、私はそのひと言を真に受けて、「本は返却日があるから読む」の言葉通り、返却日までには必ず読み終えるという良い習慣がつきました。毎週、毎週、上限の5冊を借りてきて、すべて読み終えていました。

『赤いろうそくと人魚』『椋鳥の夢』『ごんぎつね』『フランダースの犬』『マッチ売りの少女』『幸福の王子』『人魚姫』など、漢字も少しずつ読めるようになると、様々な童話や物語を借りてくるようになりました。悲しいお話を読んでは、号泣のあまり息ができなくなるほどで、泣き疲れて寝てしまったことも数え切れないほどありました。

物語世界に魅了されたのはもちろんですが、「宇宙の果てにはなにがあるのか」というようなことにも興味があったので、天文の絵本を借りてきたり、植物図鑑や昆虫図鑑を眺めたりすることもありました。

子どもの頃の記憶は不思議なもので、未だにお気に入りの多くの絵本の絵は写真に撮ったように蘇ってきます。ホフマンの『ねむりひめ』を始め、繊細で可憐な絵にはことのほか心惹かれ、まるで昨日見たかのようにくっきりと思い出すことができます。

私は5年生になる時に引越しをしてしまったので、もう「うさぎ文庫」に通うことはできなくなりましたが、5、6年生の時には図書係、中学3年間、高校3年間もいつも図書委員をしていました。図書館の本に囲まれて過ごす時間は何よりの幸福でした。

私が大学を卒業する頃までは、図書館といえば決まって本の後ろに小さなポケットが付いていて、その中にカードが入っていました。この本を前に誰が借りたのかは本を借りる時の参考にもなりました。また自分のカードに借りた本の名前がたまっていくのも励みになり、読書記録になっていきました。

もう半世紀も前に読んだ絵本や童話でも、未だに書店に並んでいることがあり、見かけると思わず手に取ってしまいます。名作は色褪せないと言いますが、本当にそうなのだということを実感する瞬間です。

「うさぎ文庫」は、どういう方が、どのような思いで始められたのだろうかと、よく思いを馳せています。いつも庭から出入りしていたので、表札の記憶もまったくなく、お名前も何もわかりません。「うさぎ文庫」のあった辺り一帯は何十年も前に都市開発ですっかり様変わりしてしまって跡形もありません。どこのどなたか存じませんが、半世紀の間、いつも心の中で感謝してまいりました。本当にどうもありがとうございました。


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