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25歳まで残り3ヶ月。どう生きていきたいか考えてみた。
24歳の今、自分はどう生きたいか、どうなりたいかずっと考えている。
就職に迷っていた頃、専門学校の時の先輩から言われた言葉を思い出した。「自分が何をしたいか分からないときは、どういう生活がしたいのかを考えるんだよ」と。
今の私にはやりたいことはある。けれど、それに割く時間と余裕が圧倒的に足りていない。心の体調が優れないことが増えて、それを受け入れることに精一杯の自分がいる。どういう生活がしたいのかについても、何歳までにこういう家に住みたい、経済的な余裕がもっとできたなら、行きたいところも山ほどある。だが、今のところ実現できそうなものはない。
あと3ヶ月で25歳。25歳ってもう若くない。そう思う度、もう自分は大人なんだ、と自覚する。いつの間にか大人になっていたんだ。
もう、そろそろ本気を出さないといけないのかもしれない。今の心の不調を受け入れながらも、なりたい自分になるために、少しずつ行動しなければいけないのだと思う。外見も内面も、本気を出さないと後悔することになる。それだけは嫌だった。他人にどう思われても自分だけは自分の味方でいたいのだ。そして自分を信じる強さも持てるようになりたいのだ。
「いつか書く仕事がしたい」
今の仕事では、書くことに全力を注ぐことができないのが現状だ。月に一度、連休を取ることを目標にして、今やるべきことをやっていこう、そう決めた。次のnote創作大賞で結果を出すことを目標に決めたのだ。
私は、人と関わるのがとても苦手だ。人を信じられないが故に、誤解されるような行動や言動をしてしまう。その裏にも、理解してほしいといつも心のどこかで思っている。寂しくなったり不安になったり、いつだって誤解されて傷ついて涙することが多かった。生きていても周りみたいに「普通」になれることはなかった。いつだって1人きりで、普通の幸せは訪れないことも分かっていた。私が言う普通とは、友人と休日を過ごせたり、話したい時に話せる人がいることだ。会いたいと言ったら、会える人がいる。そして、自分の変化に気づいてくれたりしたらもうそれは凄く素敵なことなのだ。決して当たり前ではないけれど、周りは当たり前のようにその私が思う「普通」をしているのだ。羨ましくもなるし、悲しくもなる。惨めな気持ちになることもとても多い。
でも、今は1人でもいいのかもしれない、そう思えたきっかけがあった。いつか分かり合える人と出会えるかも知れないし、いつか、この孤独な日常が、誰にも知られることのない私の人生。今までの経験や人知れず耐えてきたことが、今の私になっている訳で、いつかそれが実り、誰かの心を温められるような救えるような言葉が紡げるかも知れないのだ。誰かの日々をあたたかく穏やかなものにできるのかも知れない。報われる日が来るかも知れない。そう信じていたいのだ。そう思えると、この孤独な日々も悪くない、楽しもうと思えるのだ。
そう思えたのは、大好きな人の大好きなエッセイの最後の一文。私は今日もこの一文に救われているのだ。いつかきっと、この時間も、これからの自分の大切な時間になっていたらいいなと思わせてくれるのだ。大好きな子がそう思ってくれていること、そして私もそう信じたいと思っていることで、1人じゃないんだと気づかせてくれる。いつか、と、そう祈っているのは私だけではないのだ。私はきっとずっとこの一文に救われながら生きていくだろう。
いつか私も自分自身の心の言葉で、誰かを救えるような文章を書いてみたい。大好きな子の大好きなエッセイ、私が救われたと思うように、いつか自分の言葉で書いてみたいのだ。誰かの冷え切った心をあったかくできるようなそんな文章を書いてみたい。それはきっと否定されることが余りにも多すぎた自分自身の人生をも、救ってくれる、そんな気がしている。
25歳まであと3ヶ月、挽回できるように。
これからも私のnoteを読んで下さったら嬉しいです。よろしくお願いします🙇