ストリートの光と陰
『オン・ザ・カム・アップ』
アンジー・トーマス・作
服部理佳・訳
岩崎書店 2020
ラッパーを夢みる十六歳、ブリアンナ(通称ブリ)の物語だ。八歳の時、彼女はナズのイルマティックを聞いて人生が変わった。
八歳の少女が? 驚きだった。ナズは自身が育った環境をストレートに歌っている。ゲットーは『黒いネズミが大量に閉じ込められている迷路のような建物』で、死、ドラッグ、銃、刑務所などの悪循環が日常に組み込まれている。リリースは一九九四年。彼が二十歳の時。当時と、ブリの環境が似ていることにも驚く。ここは、時間がとまっている。
ブリの父は伝説のラッパーで、ギャングに射殺された。母はラップ界の女王キムの大ファンで、彼らの社会にラップは不可欠だ。そもそもラップは、ストリートにたむろする若者から自発的に生まれた音楽で、彼らマイノリティーの声を発信する手段として機能してきた歴史がある。
父の死後、母は薬物依存症になり、幼いブリと兄は祖父母にあずけられる。母が薬物を断ち、五年前から三人で暮らし始めた。
ブリが通うミッドタウン芸術学園は、補助金目当てに黒人やラテン系の生徒を学区外から迎えている。彼らはここでマイノリティーだ。警備員から目の敵にされ、街でも偏見の目にさらされる。白人とは、ルールが違う。
学校でもブリは居場所がない。友達は幼馴染の二人だけ。口下手が災いし、停学処分になる事もしばしば。言い分は聞いてもらえず、理解されない。想いはリリックになる。
ラップで成功すれば、世界が変わる。父のマネージャーだったスプリームは、いち早くブリの才能を見抜き、手を貸すと言ってくれた。彼に言われた通り、彼女は曲をネットにアップしてリンクをメールした。
数日後、ブリの歌『オン・ザ・カム・アップ』は、ニュースサイトのトップを飾った。曲の再生回数は増え続け、注目が集まる。確信を得たスプリームは、彼女の正式なマネージャーになることを申し出た。ラッパーとして、未来がひらけるかもしれない。
そんな矢先、事件は起こった。学校に日頃から不満を募らせていた生徒たちは、ブリの歌と共に抗議の声を上げ、暴動を引き起こした。暴力的な歌詞に触発されたと、メディアは報じている。彼女の歌のせいだと。
ブリの怒りや不安をよそに、スプリームはこの状況を絶好の好機ととらえる。レコード会社からも契約の話が舞い込んだ。でも、ブリが与えられたのは、他人の歌詞だった。不本意でも契約をゲットして、成功したい。
この物語はブリの軽快な語りで暗さを感じさせないが、現実は悲惨な状態だ。凍死しそうな家で寝起きし、冷蔵庫の前で残りの食材を数える日々。頼りの叔母もドラッグ密売の一斉摘発で連行されてしまう。
不安に押しつぶされそうでも、時に光は差す。叔母は拘置所にいても、ブリにゲキを飛ばし続ける。私はこの叔母こそが始まりで、陰の主役だと思っている。
ナズは歌の中でラップとクラックを並列する。ストリート発症のピップホップが陽なら、麻薬の取引は陰だ。ゲットーに選択肢は二つしかない。ドラッグの売人しか、叔母には生きる術がなかった。でもブリは違う。ラップは陽、光だ。ストリートの皆が彼女を応援している。ブリは愛されている。それこそが光だと思う。それ以上のモノはないし、私は知らない。
同人誌『季節風』2022 新春 掲載
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