ストリートフォトで人物を写さないという思考停止や倫理を振りかざす胡散臭さ
ストリートフォトで人物、特に顔を正面から写さないよう配慮する、配慮を求める社会の流れについては、以前にもこんなふてくされたような記事を書いている😅
ストリートフォトで人物の顔、時には人物そのものすら写さない、写らないよう配慮する? 努める? 工夫する? 問題については、自分の拙稿をふくめて、すでにこのnote空間だけでもウンザリするほど記事が書かれており、さらに屋上屋を重ねるつもりはない。
ただ、注意したいのは写すと公言したり、写っている写真を公表するよりも、写さないと言明する、あるいは写っていない写真を公表する方がはるかに容易で、大衆の肯定的承認を得られ、なおかつ発言者の倫理性を誇示できる点だ。
簡単に言うと「私は、私たちは、ストリートフォトで人物の顔や、人物そのものも写しません」ってドヤ顔キメるのは、とても安易でお気楽で、さらに社会から喝采まで浴びるのだ。
まぁ、大衆に迎合し、長いものに巻かれてよしとする人々にもストリートフォトを撮影し、公表する自由、自身の意見を世間に訴える自由はある。
とはいえ、彼らの言明にはおうおうにして発言者たちに同調しない、まつろわぬ人々への非難が含まれていて、言葉をそのまま受け取れないきな臭さがある。挙句に、日頃は政治的、あるいは市民的な自由を訴え、同調圧力を拒むと息巻いてる連中まで、倫理を振りかざしてストリートフォトの自由を破壊しようと声高に叫んだりしている。
ニンゲンってのは、その時々で雑に手前勝手な声を張り上げ、気が変われば何事もなかったように別の話をする生き物だけど、そうやって風になびく草のような有り様ゆえの蒼氓だけど、わかっているんだけど……。
まぁ俺は俺でちょっとくらい自分のおつむで考えろとか、ちょっと臭うでござんすよ、胡散臭うござんすよって、折に触れて言うからね。
おあいこだね。