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ストリートフォトがマナーという抑圧に抵抗するための基礎知識と、そこから見えてくる修羅の道

ストリートフォトは社会的迷惑行為なのか?

ストリートフォトに対する風当たりは強い。
あたかもストリートフォトが社会的迷惑行為であると社会的合意が成立したかのようにも思える瞬間も少なくないし、寄らば大樹とばかりに雷同付和して賢しらにマナーや倫理を振りかざす自称写真愛好者もウンザリするほど多い。

とはいえ、そもそも社会的迷惑行為とはなにかとの問いかけに、明確な答えはあるのだろうか?
実は、社会的迷惑行為に関する基礎研究と位置付けられる論文が存在する。
その論文は、以下のように社会的迷惑行為を定義している。

本研究で扱う「社会的迷惑」とは、行為者が自己の欲求充足を第一に考えることによって、結果として他者に不快な感情を生起させること、またはその行為を指す。

安藤直樹・斎藤和志・藤田達雄・北折充隆・吉田俊和, 1998, 社会的迷惑に関する研究(1)-認知された迷惑度の分析-, 日本グループ・ダイナミックス学会第46回大会発表論文集, 236-237.

このように定義されているものの、行為者が自己の欲求充足を第一に考えるとはいかなる思考か?
また、他者に不快な感情を生起させるについても、曖昧でいかようにも解釈可能な、定義ならざる定義のように思える。
なぜなら、この定義は社会的迷惑行為とはなにかを解き明かす研究の出発点として、研究の範囲、射程を示すものであり、具体的な社会的迷惑行為の定義は研究の結論を参照せねばならない。

今回の結果では、人々が「迷惑だ」と感じる行為は2種類に分別された。1つは決められたルールや公共のマナーに反する行為であり、社会意識尺度や価値観尺度との関連がみられた。これらの行為は社会常識的に認めがたい行為であり、こうした行為を迷惑であると感じるかどうかは、その人が社会常識を身につけ、それに従って生活しているという意識や他者への配慮とかかわるものと考えられる。一方、周りの人との調和を乱すような行為については、権威主義との関連がみられた。こうした行為を迷惑と感じるかどうかは個人の裁量によるところが大きく、権威主義的な人のような寛容性に欠ける人にとっては、迷惑と感じる度合いが大きくなるのかもしれない。

安藤直樹・斎藤和志・藤田達雄・北折充隆・吉田俊和, 1998, 社会的迷惑に関する研究(1)-認知された迷惑度の分析-, 日本グループ・ダイナミックス学会第46回大会発表論文集, 236-237.

20世紀末の論文で、発表から四半世紀以上も経過しているものの、いわゆる「社会的迷惑」やその定義については、いまだに参照、引用される基本的な研究だ。
では、この研究を踏まえてストリートフォトを社会的に位置付けると、少なくともブルース・ギルダンのように真正面から相手の許可を得ず撮るのは決められたルールや公共のマナーから逸脱しているとの社会的合意が成立している。
また、より穏便な撮影についても、最初に述べたように決められたルールや公共のマナーに反するとの声が高まっており、路上写真家を自称する何者かまでも、このように扇情的な記事で世間を煽り立てる始末だ。

このような有り様なので、決められたルールや公共のマナーから逸脱しているとの社会的合意が未だ成立していなくても、ストリートフォトへの風当たりが強まっている状況においては、路上撮影が周りの人との調和を乱すような行為とみなされる可能性が極めて高いと言わざるを得ない。特に、他者の顔を写しているとみなされた場合はそうだ。
とはいえ、実際に顔を写しているかどうかなんて、撮影者にしかわからないし、そもそも公共の場での肖像権はかなり限定されている。おそらく、真の問題はなにを撮ってるかわからないところで、肖像権云々は後付けではないかとさえ思える。

路上で写真を撮る胡散臭い連中

先に記事を引用した路上写真家なるアカウントは、このような記事も書いている。

また別のカメラ愛好者も、このように撮影そのものを後ろめたく感じると記事にしている。

これらの記事で筆者たちが吐露しているのは、世間から路上で写真を撮ってる胡散臭い連中と見られる抑圧の実感で、正しくなにを撮ってるかわからないところから発する社会的圧力だ。これが名所旧跡で花鳥風月を、あるいは保護者が子供を撮るのなら、少なくとも胡散臭い連中ではない。
とはいえ、なにを撮っているかわかればいいってわけでもなくて、わかりやすいところではストリートポートレートへの風当たりがある。撮影者が男性で、女性を撮影する組み合わせなら撮影者やモデルの年齢とは無関係に、まとめていいとしのおじさんが若い女の子の写真撮っててキモいと烙印を押される。撮影者が女性だとモデルの性別とは無関係に、カメラ女子ウザいとなり、つまるところ世間様とはなにかと他人のやってるあれこれに文句を言う存在で、若いものを捕まえてそんなんじゃ世間に顔向けができないと諭す、うっとうしい年寄みたいなところがある。

まとめると、以下のようになる。

  • 撮られた側が自分の顔を許可なく撮影されたと認識した場合=決められたルールや公共のマナーから逸脱している=社会的迷惑行為

  • 他人の顔を撮影しない、人物を画面に入れない路上撮影=周りの人との調和を乱すような行為=社会的迷惑行為

いずれにせよ、ストリートフォトは社会的迷惑行為の烙印から逃れられそうにない。それどころか、このままでは世間様におもねり、まつろう写真家たち自身の注意喚起によって、路上撮影すら社会的迷惑行為とみなされるだろう。

人間やめますか? ストリートフォトやめますか?

ストリートフォトが社会的迷惑行為の烙印から逃れらないとなったら、愛好者たちはどうするだろう?
ネットでは路上撮影をやめる、あるいはやめたと宣言している自称愛好者も少なくない。最近はEthical Street Photographyなる言葉を目にする機会も増えたし、冒頭に引用した記事では自分もそういう風潮について書いた。
とはいえ、大多数は世間との摩擦や軋轢は回避しつつ、なんとなく世の中の風向きに流されて、続けるともやめるとも決めないまま、撮れそうなら撮るかもしれないけど、撮れなくなったら撮らないでもいいかなとか、そんなところだ。

でも、ニンゲンってそういう生き物だよね。

まぁ、再三引用している路上写真家なるなにものかは、以下のような注意喚起ともなんともつかないような記事を書いて、アリバイ工作あるいは煙幕をはりつつ、路上撮影してる自分自身を守ろうとしている。

大した主張らしい主張もないし新たな知見もない、毒にも薬にもならない文章だが、こういう記事を掲載する身のこなし、処世術については心から称賛を送りたい。
こういう記事に主張らしい主張や新たな知見を盛り込んだら、アリバイ工作にも煙幕にもならない。
しかも、こういう記事を書いて掲載する行為そのものは、ヒトとして完全に正しい。
ヒトは群れて生きる。だから、群れの中で自分自身が群れの調和を乱さない存在だと、アピールし続けなければならない。なぜなら、そのアピールを怠り、群れの調和よりも自分の利害を優先させるヒトとみなされたら大きな軋轢が生じ、最悪の場合は群れから追い出されてしまうのだ。
というわけで、自分自身をニンゲンであり、群れの調和を意識していると表明する路上写真家なるなにものかは、まぎれもなくヒトとしてまっとうなのだ。

しかし、数はあまり多くないけれど、群れの調和を乱してでも路上撮影をやめない、ガンギマリのストリート・フォトグラファーもまた、確かに存在している。
ニンゲンをやめてもストリートフォトをやめなかった、そういう人々だ。

ようこそ写真至上主義の路上へ

もし「私は、私たちは、ストリートフォトで人物の顔や、人物そのものも写しません」ってドヤ顔キメた人々を出迎えるのが、満面の笑みを浮かべつつ大きく両手を広げる盛装の吉田鋼太郎としたら、路上撮影の自由をかたくなに訴え、ストリートフォトで他人の顔を撮り続けるニンゲンをやめたナニモノかが追いやられる先は、ふんどしいっちょうの國村隼がガンギマリで水垢離している辺鄙な里だろう。
その里には、定期的に写真愛好者を名乗るナニモノかがあらわれ、路上撮影を続ける人々に罵声を浴びせたり、女性ポートレート撮影でキモいおじさん呼ばわりされているのを棚上げしつつストリート・フォトグラファーは女性モデルからキモイと言われてるなんてnote記事にアップしたり、路上撮影する有り様を勝手に撮って「違法盗撮おじさん」などとテロップ付きで動画サイトへアップしている。
おまけに、そんな里で性懲りなく写真を撮り続ける人々は、それぞれいがみ合い、互いに足を引っ張り合ってる。それでも、彼らは里から離れない。なぜなら、そこには写真を撮る自由があり、ヤバい人にカメラを壊されたり、さらにはボコにされたり、甚だしい場合は指を折られたりしても、笑いながら「すげぇなぁ! お前バカだなぁ!」といって受け入れてくれるのだ。

自分も、もうすぐその里へ行くよ。

わーい! 君はライカ・モノクロームのフレンズなんだね!
ここは写真至上主義の路上だよ! わたしはニコマートにオートニッコール! 毎日トライXで撮りまくってるの!

あなたも、ニンゲンやめて路上撮影のフレンズになりませんか?

最後に

しかるに諸君、インプレ乞食は滅ぼさねばならない。

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Morihiro Matsushiro
¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!