サブカル大蔵経734植木雅俊『法華経とは何か』(中公新書)
真宗僧侶にとって食わず嫌いの法華経。
植木さんの学業のおかげでもっと真宗僧侶が法華経を偏見なく自由に読める時代になるといいなと思います。
法華経を通して仏教を知る。
中国仏教を通して仏典を理解するというやり方にも疑問を持った。p.ⅴ
本書での岩波文庫での岩本裕さんの訳業を批判する姿勢は、経典の正しい理解のために、玄奘がインドに経典を取りに行くモチベーションに近いのでしょうか。
『法華経』は釈尊滅後の500年間に変容してしまった当時の仏教界を見すえつつ、原点を見失なうことなく、社会に対して積極的に発言する"生きた"仏教であった。p.ⅵ
ここに新興宗教が次々と立ち起こる魅力の根っこがあるのかなと思いました。
鳩摩羅什は/「白蓮華」に込められた「最も勝れた」という譬喩的意味を十分に汲み取って「妙法蓮華経」と"絶妙"の訳をしていたのである。p.13
妙なると言う文字を入れた翻訳。
道元の著書『正法眼蔵』に引用された経典は『法華経』が最も多い。p.49
横断する宗派。真言宗も天台宗もみな鎌倉仏教に染み渡る。
釈尊は「君」「ゴータマ」と呼ばれても意に介する人ではなかった。釈尊は傲慢ではなかったのだ。p.75
呼称から浮かび上がるもの。
ところが小乗仏教になると、ブッダに到ることができるの釈尊1人だけと言うことにされてしまった。p.86
神格化とその否定の繰り返しか。
中村博士は「初期の仏教においては、ただ『来たれ』(ehi)と言われて釈尊に帰依することが修行僧としての受戒であった。p.95
最初期の入門儀式。釈尊の言葉。植木雅俊さんが中村元先生から受け継いだ真摯さと巨きさ。そして厳しさ。
小乗には小乗の、大乗には大乗の差別思想があった。それぞれの差別思想および両者の対立を克服し、普遍的平等思想を打ち出すという課題を受けて成立したのが『法華経』である。その平等の旗印が「一仏乗」の思想であった。p.105
経典の中の差別。その克服。
ブッダとは、地位や肩書のようなものではない。到達しさえすればよいというゴールでもない。「善き行ない」という振る舞い・行為としてある。p.300
仏がスタート。菩薩との兼ね合い再考。