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サブカル大蔵経79ルネ・デカルト/山田弘明訳『方法序説』(ちくま学芸文庫)
デカルトとは?哲学とは?
山田先生の冒頭文が面白い。
読みづらいと言うのはその文章のせいである。何しろラテン語に近い古風で荘重なフランス語が切れ目なく延々と続いていて、ピリオドを探すのに苦労することはザラであった。面白くないと言うのはその内容のせいである。そこに書かれている事は良識や精神であったり方法や実験であったりする。それらは現代の我々から見ればどれも常識的なことである上に、全体が雑然としていて要するに何を主張したいのかがよくわからない。しかしその後デカルトについて少しばかり勉強してきた今の筆者には序説は読むには依然として難しいが、底知れない面白さを秘めていると思われるようになった。というのもそれをデカルト自身の生と哲学的発展と重ね合わせて読み直してみるとき1行1行に深い思想の含蓄があり、素直で快活な若いであるデカルトに出会う思いがするからである。『序説』はデカルト41歳の著作である。p.5・6
たぶん著名な難解な本を何とか伝えようと格闘してくれている学者さんはいる。その方に感謝して第一次文献を読もう。
「我思う故に我あり」だけではない『方法序説』。
天国への道は、最も学問のある人にも全くない人にも等しく開かれており、天国へと導いてくれる啓示の心理は我々の理解を超えていることを大変確かなことだと知った。p.25
〈天国〉という言葉の使い方が、新鮮。どういう時代だったのか。その時代の空気をデカルトが顕してくれているのかもしれない。デカルトは時代を切り開いたのか、時代をあらわしているのか。
それ故、私は教師たちの手から解き放たれる年齢になるとすぐに、書物による学問は全くやめてしまった。そしてこれからは私自身のうちに、あるいは世間と言う大きな書物のうちに見出されるであろう学問だけを求めようと決心した、私の青年時代の残りを旅をすることにしました。そして、宮廷や軍隊を見、様々な気質や身分の人と交際し、様々な経験を積み、運命に任せた巡り合いの中で自分自身を試し、至るところで立ち現れてくる事柄に照らして、いつもそこから何か利益を引き出すことができないかを考えることにしました。p.27
書物を捨てて、世界に出よう。さまざまな職歴を変遷したデカルトの生き方は、実はストリートワイズ。サブカル的だったのでは?
そして私は考える、故に私はあると言うこの心理は、大層堅固で確実であって懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めた。p.56
なぜここに行き着いたのか。いわゆる頭の中でこねくり回したものではないような気がする。
次に、私とは何であるかを注意深く吟味した。そして次のことを見てとった。私はいかなる身体も持たず、いかなる世界もなければ、私がいるいかなる場所もないと仮定できるとしても、だからといって私が存在しないと仮定できないこと。逆に、私が他の事物の真理性を疑おうとしていると言うまさにそのことから、私が存在することが極めて明証的に極めて確実に帰結すること。反対に、私がただ考えることをやめたとしただけで、かつて想像した他のすべてのことが真であったとしても、私が存在していたと信じる根拠は全くなくなること。これらのことから私は次のことを知った。私とは1つの実体であって、その本質つまり本性はただ考えることのみであり、存在するためには、いかなる場所も要らないし、いかなる物体的なものにも依存していないこと。したがって、この私、すなわちそれによって私が私であるところの精神は、物体から完全に区別されており、またそれは物体よりも知られやすく、たとえ物体がないとしても、精神はやはり精神であり続けるであろう、と言うことを知った。p.57
これ、仏教でいう、空か、唯識なのか?
神はそれらの法則を自然の中にしっかりと打ち立て、その概念を我々の精神の中にしっかりと刻印しているので、我々がそれを十分に反省した後では世界に存在し生起するすべてのものにおいてそれらの法則が正確に守られている事は疑いないことである。p.69
私の中に神がいる。神は捨てない。
ここで私は特に立ち止まり、次のことを示そうとした。仮に猿か何か他の理性を持たない動物の器官や外形を持った機械があるとするなら、その機械があらゆる点でこれらの動物とは本性を異にしている、と認めるいかなる手段も我々にはないであろう。これに対して、我々の体と似ていて、実際的に可能な限り我々の行動を真似る機会があるとしても、だからといってその機会が本当の人間なのではない、と認める極めて確かな2つの手段がやはり我々にはあるだろう。第一の手段は言葉を使うことも他の記号を組み合わせて使うことも決してできないと言うこと。第二の手段は多くのことをこなすが他の点ではできないと言うこと。機械は認識によって動くのではなく、その配置によって動いてるだけだ、ということが見いだされる。p.85・86
この辺の動物機械論から文章は妖しさを増す。
狂人の言葉は理性にこそ従っていないが、目の前の話題にやはり敵応している。p.249
障害者こそ見える世界。いや、見えている適応者こそ狂人ということか。
内容の分析とまとめ歴史的背景の説明現代の上解釈の紹介問題点の指摘これは哲学の書物を読むときの基礎作業である。フランスの学校教育でテキスト解釈と呼ばれているやり方である。p.256
私が習ってきた文献学もこうだったと思う。懐かしくて厳しい世界だけど、嬉しい。
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