サブカル大蔵経974鈴木志郎康『家族の日溜り』(詩の世界社)
詩を読む習慣はないけど、お経も物語も、もともと韻文だとするならば、詩は文語表現の元祖というか、原点なのでしょうか。
歌謡曲も詩?ラップも詩?天気予報も詩?家族や夫婦の対話も詩(プレイ的な)?漫画のフキダシも詩?最近の会話ばかりの小説も詩?ゼレンスキー大統領の発言も詩?バスの時刻表も詩?タクシーの運転手さんの話しかけも詩?ネコが腹出して鳴くのも詩?
実は私の周りは詩に満ちていて、あえて、本で読む詩が異質なものになっているのかもしれない。
鈴木志郎康さんは、記憶に間違いなければ大学の非常勤講師で来られた気がします。その授業にでたかどうかも朧げですが、その名前は痛烈に記憶しています。
昨年の萩尾望都大泉事件の時、類書を調べていたら、鈴木志郎康さんの書籍を見つけて取り寄せて読みました。橋本治以外では貴重な少女マンガへのアプローチでした。
らくだが表紙の本書は、いつかどこかで古本屋で購入したものです。どこだったか…
老人たちはちっとも急がないp.15
病院の待合室は人を詩人にさせる。
仏壇は人について行ってしまったらしいp.29
人につく、か…。猫のよう。
死んだ兄たち
今は向う側に
両親と姉弟がそろった
それは家族じゃないか
こちらは兄と私の二人だ
そして二人共別々に住んでいるp.39
今日さっそく法話で引用しました。
死の処置の手順を進めている私の手が
写真をはがすp.44
父の死を病室で認めてからの自分の行為の違和感を言葉にしてもらえました。
この生活の中で
私はとても殺人者にはなれないと思ったp.46
そういう人ほど危ないような…
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