サブカル大蔵経219中村昇『落語-哲学』(亜紀書房)
落語と哲学。大学時代、落研と印哲に所属していた私のための本か^_^と思いきや、読んでも難しくて、あまりくみとれませんでした。
落語と哲学を結びつけるのは野暮なのか。相性悪いのか。
噺がイデア界なら、枕はその導入である中間世界だ。p.11
噺と枕の関係かあ。なるほど…。
初めは落語家だった明石家さんまという人がいる。この人は枕だけをやり続ける芸人だといっていいかもしれない。p.11
私も落研時代、噺よりも枕のことばかり考えていました。だから、落語自体が好きではなかったのだろうか…。なぜ江戸時代の噺を覚えて現代でやるのか、しかも話の筋もオチ面白くないし。
でも、だからこそ面白かったと思う。
業は肯定したり否定したりするものではない。p.17
談志の業肯定論へのツッコミ。この部分もよくわからなかったです…。
「生命」が、それとは反対の機械的でぎこちない動きを見せるとき、われわれは笑ってしまうと言うわけだ。p.29
これ読んだ時、松本人志がカタコトの外国人や不器用な素人を起用した番組を思い出しました。松本人志の笑いの核はこの辺のような気がする。
粗忽長屋。果たして私は生まれてからずっと同じ私だったのだろうか。p.64
私が稽古をつけてもらった唯一の噺が、粗忽長屋でした。今思えばなぜこれを選んでおろしたのか、導かれていたような気がします。
元犬。これは犬だねとわかる振る舞い方こそが、犬を表していると答えるしかないだろう。p.90
落語という記号学、認識学?
人類以外の動物は解放され(肉食が、喫煙のように忌避されるようになり、動物園はもちろんなくなり)、さらには、植物が解放され(「雑草」などと言う概念が消え、樹木伐採はつみとなり)、鉱物がそれに続く。最終的に「存在するもの」すべてが、平等な権利を持つ者として解放され尊重されるに違いない。p.96
落語という博物学。古くて新しい。生命誌の先取り。
なぜ、事実だけの世界ではいけないのか。p.98
個人の事実と世間の現実の相克が落語であり、人生そのものかもしれません。
いたたまれなくなって、とにかく相手のいないところに行って安心する。p.124
落語という心理学。
もう半分。何といっても「半分」のもつ未完成感だろう。未来永劫、終わることがない。この噺の恐ろしさ。p.162
落語という言語学。
死の三人称、哲学者、ジャンゲレヴィッチ。p.165
私の死、あなたの死、誰かの死、それを等しく考えるのが仏教だと、父がよく法話で話していました。
なぜ、人間は死んでも身体は残っているのか。つまり、死体は、なぜ存在するのか。という疑問である。p.196
粗忽長屋のキモ。死と死体の関係。それは私もいつも枕経のとき感じています。
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