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サブカル大蔵経236橋本治『宗教なんかこわくない』(ちくま文庫)

私自身、うっかりすれば教祖にさせられてしまう。だから私は読者というものが好きではない。p.34

橋本自身が教祖にならないよう配慮しながら宗教について語る論書。

著者の視点と率直な言葉が次々と真理をついているように思えてきます。初読の時貼った付箋紙は100枚を超えました。

なので、以下引用箇所が多くなってすみません。再読してもあらためてすごい本だと思いました。日本人と宗教の関係、宗教そのものの根幹。僧侶への提言。すべて今の自分につながる。

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宗教とは、この現代に生き残っている過去である。p.11

 まずここから。難しいの源泉。

「宗教とはなにか?」と言う問いは、「人は何を求めるか」と言う問いと重なると言うことである。人は何を求めるのか?答えは簡単である。人は幸福を求める。もう少し正確に言えば、人は自分の幸福を求める。p.12

 〈宗教とは、何かを求めるもの〉たしかに仏教もここを見逃すと、法と人の乖離が起こる。仏教とは、釈尊の最初から近接と乖離の歴史だったか?

現在の日本人に必要なものは、神ではない。自分のことをよく理解してくれてよく導いてくれる"上司=教祖"なのだ。p.44

 新宗教でも、いや既存すべての宗教がこのことを内包しているのかもしれません。政治家も、そうなるのか。

私にはオウム真理教を「インチキ宗教だ」と言う気がない。それは、イスラム教の教義に基づいて仏教を「インチキ宗教だ」と言うのと同じことになってしまうからだ。(中略)あえて言ってしまえば、オウム真理教こそが、宗教なのだ。問題は「オウム真理教が宗教に価するものかどうか」と言うことではなくて、「オウム真理教こそが宗教であると言うような現実を目の前にして、それでもまだ宗教は必要なんだろうか?」と言うことである。p.49

 このことを私はすんなり受け止めれましたが、家族に話したら、え〜ッと言ってました。私も橋本教に入ってるのかな?

日本国憲法の信教の自由はうっかりすると多くの日本人に対して宗教が理解できない劣等感を植え付けてしまうものになると言うことだ。p.73

 信教の自由ということに持て余し感を昔から感じていた。私たちには関係のない事項だと。そういうことだったのか。

「唯一の神の下の平等」を言うキリスト教と、「唯一絶対の天皇の下の国民の平等」を言う国家神道とは、その構造においておんなじものなのである。だからこそ、キリスト教は国家神道に立ち向かおうとした。p.81

 世界で唯一キリスト教会がマイナーな存在の日本でこそ、キリスト教はパウロ以来の宗教的な伝道を発揮したのか。

人間は、「どっかにその答えを簡単に出してくれる人がいるんじゃないか?その簡単な答えがあるんじゃないか?」と思っている。あなたがそう思っているんじゃなかったらいいけど、もしもあなたがそう思っているんだとしたら、あなたは宗教のいたって近いところにいる。p.86

 この辺りが本書の重層的なキモのひとつだと思いました。歴史や説明だけでなく、今のあなたは、どうなんだと。

現在の宗教は、信者の親睦会であり、勉強会であり、残された古い遺跡を守る文化団体であり、p.103

 ここ、刺さりました。そうなんですよ、私たちは、勉強会と懇親会しかしてないんですよ。

社会を維持する宗教は生産を奨励し、個人の内面に語りかける宗教は別に生産を奨励しないのである。p.154

自分に目覚めたものは社会からの要請をなおざりにする。仏教が栄えると国は滅びるとは、昔の中国でよく言われたことである。何故かと言うと坊主は何も生産しないからである。p.158

 生産しない存在。その意識と覚悟。

彼らにとって1番重要な事は自分が正当でいかがわしくないと言うことなのだ。p.183

 危うい状態の人が陥る拠り所。それはわたしかもしれない。

「自分の人生は自分のものだと思ってもいいんだよ。」ゴータマ・ブッダの思想とはそういうものなのである。それだけのことなのである。p.232

 これ、法話で早速使いました。

カースト制度が「職業=生活」をそれなりに保障するインドでは、仏教という個人の内面に語りかけるだけで別に生産を奨励しない宗教である仏教が廃れて、社会を維持して生産を奨励する−ヒンドゥー教が主流となったのである。p.236

 「カーストこそ、生活を保証していた」これ、誰も言ってなかったことでは?考えたらみんなが出家したらインド成り立たなかったかも。

仏教とは、「悟りを開いて、自分の人生を自分のものにして、ただの人になるのが正しい」という教えである。(中略)仏=ただの人になる。p.266

 仏=ただの人!それが一番難しいのか。アイヌの教え「アイヌ ネノアン アイヌ」(人間らしい人間になる)だ。

グノーシスとは光の意味である。しかもそれは、外から照らす光ではなく、内側をおのずと照らすような光で、直感的な深い知恵のことである。手っ取り早く言ってしまえば、悟りである…。p.267

 キリスト教も仏教になる。なる教え。逆に仏教の中でも真宗はキリスト教的なのか。なれない教え。なれないことをじかあして、なれる教えか。

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永江雅邦
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