【書籍紹介/海外文学】歴史小説は如何にあるべきか?(ショートバージョン)
こんにちは。
試験勉強もいよいよ佳境を迎えているというのに、読書だけはやめられないM.K.です。
わざわざこんな時に更新しなくてもと思ったのですが、今回読んだ本は是非とも記事として形に留めておきたいと思ったので、急遽書き始めました。
今回紹介するのはこの本です。
ローラン・ビネ『HHhH: プラハ、1942年』
ゴンクール賞を取ったり本屋大賞を取ったりして、一躍有名になった作品なので、読んだ人も多いのではないかと思います。
どうして改めてこの作品を記事として残したいと思ったのかというと、私が「歴史小説」というものを書きたいと思い続け、実際にそれらしきものをとあるプラットフォームにUPしており、本著を読んでこれが如何に恥ずべきことか思い知らされたからです。
『HHhH』は、ナチス・ドイツにおいて「金髪の野獣」「最も危険な男」として畏れられた、ラインハルト・ハイドリヒという人物と、彼を暗殺するため送り込まれたチェコ人とスロヴァキア人の2人のパラシュート部隊員の、史実に基づく小説です。
ハイドリヒは「ユダヤ人の最終解決」の提唱者でもあり、チェコスロヴァキア侵攻後はプラハで恐怖政治を敷き、延べ何千何万人もの市民を虐殺した野心家でした。
前半は、彼がいかに党内での権力闘争やユダヤ人虐殺によって権力を拡大していったかが描かれます。
ロンドンに亡命していたチェコスロヴァキア亡命政府の命によって、二人の若者が彼を暗殺するためにプラハに潜入し、レジスタンス(とはいうものの一般市民)の力を借りて任務を遂行しようとするのが、後半。
……なのですが、本著が普通の「歴史小説」と異なるのは、「歴史」を「小説化」することに思い悩む著者の「僕」も、本作に登場するところです。
この「僕」は、ハイドリヒ暗殺事件を知り、運命の巡り合わせによってそれを本にしたいと思うようになり、膨大な資料を収集し、やがて気付くのです。
小説にするために、歴史の空白部分を捏造して、本当にいいの?
たとえば、二人のパラシュート部隊員が船の上で、地下墓地で、レジスタンスの家で何を喋ったか。史実でも仲良しだった二人の会話を、著者は捏造していいのか?
これはもっと大きな問題に繋がっています。こうした細部の捏造によって登場人物がデフォルメされて浮かび上がり、フィクションとして面白く消費できるとしても、彼らは実際にこの世に生きて死んだ人なのです。
任務を遂行しようと危険を冒し、亡命政府の対応にやきもきし、レジスタンスの女性と恋に落ち、絶望し、恐怖し、そして壮絶な最期を遂げた、実在の人物なのです。
著者は一体何の権利があって、彼らに余計なイメージを付与させられるのか?
私は著者のこの「歴史」への誠実な態度と、苦悶する著者の姿にかなり感銘を受けました。
というのも、私こそ、浅はかにも「歴史」を消費対象として軽い気持ちでデフォルメして公開していたからです。
私が書いたのは戊辰戦争についての小説(のようなもの)ですが、物語の首尾一貫性やカタストロフィのために捏造に捏造を重ね、そのことに完全に無意識でした。
著者はミラン・クンデラに言及して、彼が「架空の人物に架空の名前を付けることが恥ずかしい」と言いつつ、名前を持つ架空の人物をたくさん生み出してきたことを指摘します。
クンデラのフィクションですらそうなのに、歴史小説でそれをやってしまったら、もう目も当てられない。
なのに、私はそれもやっちゃってました。都合よく架空の人物をでっち上げていたのです。
また著者は、本著を書いた最も大きな動機は、戦後英雄としてチェコとスロヴァキアの人々の記憶に刻まれたパラシュート部隊員よりも、彼らを助け、匿ったことで拷問され、虐殺された市民達の忘れ去られようとしている勇気を記しておくことだと述べています。
歴史を描くことの動機が非常に明確かつメイクセンスしています。
これに比べて私の動機はあまりにも幼稚でした。好きな歴史上の人物を描きたい、それ一点です。
安易に歴史を描くことは、その時代を精一杯生きた人々への冒涜になりかねないし、
勝手都合で捏造を紛れ込ませる行為は、下手すれば歴史修正主義のような振る舞いだし、
とにかくものすごくハイリスクな行為だということが分かりました。
でも、じゃあ「歴史小説」ってどう在れば良いのだろう?
本著はあくまで小説なのですが、このリスクを和らげるために、「僕」という著者の分身を登場させ、「歴史」と「小説」のアンチノミーに思い悩み精神を害していく有様を、合間に挿入したのでしょう。見事です。
そして、全くフィクションの部分を排除しているわけではなくーーそんな事するならノンフィクションのドキュメンタリーにすればいいーー必要最小限度に絞って、読者に伝えなければならない事を伝えるためだけに、小説の力を応用しています。
このストイックさも見事でした。
一つの文学作品によって自省させられ、歴史や人間について改めて考えさせられ、新しい歴史小説の可能性を感じさせられるなんて!
だから海外文学は辞められないんですよね。