私と音楽と写真と言葉。
音大に通っていたころの私は、音楽しかしていなかった。
音楽を学ぶ学校に通っていたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、ほかの世界との繋がりを無意識に絶っていた当時の私は、視野が狭いというか頭が固いというか、とにかく閉鎖的だった。
自分がいる音楽の世界がすべてだったし、その世界で実績を残している師や先輩の言葉は絶対的なものだった。
大学生活後半の二年間、お世話になったピアニストがいた。
歳は母親と同じか、それより上くらいだろうか。
私のことをすごく可愛がってくれていたと思う。
情熱的なのに指示はいつも冷静で的確で、言葉のキツい人だった。
いつでも私のことを本当に心配してくれていると分かっていながらも、どうしてもその人から浴びせられる言葉を受け止め切ることは出来なくて、長くはそばに居られなかった。
私の演奏を聴くたび、その人がよく言っていた。
「ものごとは何でも事務的に処理するのよ」
「理論的に説明のつかないようなことをしてはダメよ」
納得できなかったわけではない。
音楽どうこうは抜きにしても、大人というのは、世間というのはそういうものだろう。
だけど、私は自分の演奏も表現も理論付けることが出来なかった。
それから数年経って、私も少しは大人になったが、やっぱり今でも言葉で説明のつかない、上手く言えないことの方が多い気がする。
文章を書くこと、話をすることは嫌いではない。むしろ大好きだ。でも、大好きなはずなのに、私は言葉で的確なことを言えないし、確信を突くような表現をできない。今書いているこのnoteだって、一体どこまできちんと伝わっているのだろう。
言葉にはならないけれど、高ぶる気持ちやなんとなく少しセンチメンタルな気持ちを音に乗せたい時がある。だからやっぱり音楽をやっていたい。
上手く説明は出来ないけど、誰かに共有したい景色があったり、大切にしたい日常に触れたときに、シャッターを切りたくなる。だからこれからもずっと、自分のそばにカメラを置いていたい。
全部は伝わらなくてもいいから、下手でもいいから言葉を並べてみたくなるときはこうしてnoteを開いたりもしたい。
音楽と写真と言葉。
交わりそうで交わらない三つが、これからも私を支えてくれる。