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河の記憶

あの時
なにかひとつかみさまにお願いできるとしたら
わたしはもう少しだけ待ってといった。


虫に喰われ風に晒され
熱に冒されたふるい桟橋の真ん中に
手すりだけを頼りに立っていた。

下には何百メートルもある真緑と群青の荒れた河が
不規則なしぶきを上げて
桟橋上の人間の足首を掴もうとし
その雫の一滴にも恐れ慄く。


畝に紛れチラつく、鋭いガラス片の
妖しい光がいざなう。


もう飛び込んでしまいたい自分の危うさを
わたしはよく知っていた。

くるぶしの震えを止めることも
ガクガクと笑う膝を押さえつけるのにも疲れ
もう手すりを握る手には、力のないことも。


この河は永劫の死だと
その淵の間近に立つのに
まだわたしは飛び込まないのかと
ひとり回るハツカネズミ。


その河はわたしだった。


生まれ出ずる日に持ち合わせたすべてを憎む
他力本願さゆえに
河はいのちを奪う様相にしか見えないでいた。

同時に、そのすべてを諦められないのは
至極真っ当な人間らしい答えだったのに、
しかし本来の道を頑なに拒否した。

「主よ人の苦しむ歓喜の声が聞こえるでしょうか」

そんなもの祈りではない。
傲慢に自己憐憫たっぷりにあさましく自分を呪った。



その桟橋の上は、もう陽に照らされていた

なぜ皮膚が桟橋を
この目がこの景色を
捉えられるのか
本当のことを知ろうとしなかった

この網膜に映るすべてを甘受しないのは
当の本人以外の何者でもない


本人の感知など無視して
このからだは教えている

身勝手に強引に流れ、
気がつくのをただ待っている

粛々と 粛々と

#詩 #過去 #内省 #回想