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[理系による「映画」考察] わが谷は緑なりき(1941) ➡画がとても美しく、非常に良い映画ですが、ゴリゴリ理系の第二の苦手分野である"家族ヒューマンドラマ"。

ベストセラー小説の映画化とのことで、小説の映画化は大体失敗する中で、とても綺麗な画で構成されており、ドラマとしても色々な要素を組み合わせて、感情・イベント起伏にも富んでおり、一気に観れるとても良い映画でした。

恐らく、
"ニュー・シネマ・パラダイス"、の基礎はここであり、
"アルプスの少女ハイジ"、もここから来ているのでは?


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ここからはゴリゴリ理系的サイコパス文章になるので、不快になられた方はごめんなさい。
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とても良い映画なのですが、個人的には、"家族ヒューマンドラマ"はかなり苦手です(ちなみに"恋愛モノ"も苦手です)。

なぜなら、素晴らしい演技で感情移入できる形で表現されている分、論理的におかしいだろう!、とゴリゴリ理系サイコパスの面がどうしても出てしまうからです。(あくまで映画で架空の物語なので、そんな個人的な感情を出さず、単に楽しめば良いのは分かっているのですが…)

まず、お約束の、"家族の絆は強い方が良い"、ですが、親兄弟と言えども、やはり異なる人ですし、気が合う・合わないは当然あり、そんな中で"強い絆"っていうのは、それほどメリットはないような気が…。過ごしている時間は長いので、大人になってから、たまにその思い出を語って楽しむぐらいが個人的にはちょうど良いと思うのですが、時代の価値観の違いですかね~。

次に、兄弟がアメリカに行くのは悲しいシーンとして描かれてますが、つまり、母親としては家族が家に住むことが良し、とされてますが、個人的には自身の子供たちには早く独立して家を出て行ってほしいし…、当時は片道切符で今生の別れに近い行為だったのかな、と推測できますが、子供たちが現状に危機感を感じ時代に適応して生き延びようとする意志・行為自体は、自身にとっては喜ばしい限りであり、時代の価値観の違いですかね~。

また、主人公が、大学にいってホワイトカラーになるチャンスがあるのに、亡くなった兄を思う初恋のその妻(義姉)を想い、同じブルカラーの職業に就くのも分からない….。ただでさえ炭鉱は危険でかつ縮小産業なことは分かっているのだから、死の危険がないホワイトカラーになって、アメリカに行った兄弟・未亡人となった義姉も含めて、家族全体を経済的にもっと良い方向に導く職業に就いたほうがどう考えてもいいのですが…。悲しみはいつか忘れるものなので、もっと長期視点に立った方が…

最後に、結局50年もその場所にとどまり、もう戻ることはない、と出ていくのも、さっぱり分からない…。母のショールに荷物をまとめ、のセリフで、母がこの場所で一緒に過ごしたい、と言い、心優しい主人公が母が面倒を見るためこの場所にとどまった、な背景の暗示かもしれませんが、当時の寿命だと50年は人生のかなりを占めており、荒廃した山・村を冒頭に出す演出を見てしまうと、そんな風景を母にみせるのであれば、もっと早めにホワイトカラーに転職して、違う環境を母と義姉に与えれば良いのに…。そもそも、父と兄を死に追いやった炭鉱が象徴としてある町に居続けたいかな…。

結局、映画の一番の見せ場でのセリフに、筋道を立てて論理的に物事を考えることだ、とあるにも関わらず、論理的でない行為がゴリゴリ理系からは多々見出されてしまい、もしや、論理的に行かないことが人生では多々ある、がこの映画の主題!?

ただし、上記はあくまで、変わり者のゴリゴリ理系のサイコパス的個人感想であり、映画としては素晴らしいことは、再度アピールしておきます!


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