[OldCityBoy的「映画」考察] お早う(1959) ➡"芸術"から"日常あるある"までいっぺんに映像表現に混ぜれる大巨匠"小津安二郎"に感嘆する
この映画は凄いっす!
初見で衝撃を受けましたが、何が凄いか言語化できず、思わず連続して2回観てしまいました。
この映画を語る前に、
小津安二郎作品はちょいちょい見ていましたが、どーも好きになれませんでした。というのも、大人が理想化した女性像を押し付けられているようでなんだか…。
が、この作品はちょっと違う、との評判を聞いて、夏休みで暇だし観てみました。
で、驚愕でした!
何が凄いかというと、
"芸術"から"日常あるある"までいっぺんに一作品に混ぜ、エンタメとして成立しとるやないけ!
でございます。
具体的に、
まず、ストリートとしては
・家族あるある
・母親あるある
・子供あるある
・父親あるある
・ご近所あるある
・思春期(反抗期)あるある
・恋愛あるある
な幅広い"日常あるある"を、ユーモアとウィットをふんだんに入れた喜劇になっています。
これだけ複数の"あるある"を、この作品ではなんてことないように繋げていますが、これを1つの物語に違和感なく仕立てるには、それぞれの要素をものすごい綿密に組み合わせる必要があり、それだけでも感嘆に値します。
が、この作品では、この"日常あるある"だけでなく、芸術性も多分に入れ込んであります。
具体的には
画面の両脇は常に障害物があるような絵になっており、画の中心の役者に自然に注目せざるを得ないようにしている→浮世絵やフェルメールの技法
会話の間は落語
となるのですが、特に1.に関しては小津安二郎の十八番なのですが、この作品では役者のセリフ毎に画を変えることが非常に多いです。つまり、2人の会話でも、1人1人画を変えるのです。つまり、浮世絵・フェルメールな構図の画を会話毎に何度も切り替えるのですが、それが日常を描きながらも良い緊張感を与え、普通の映画と異なり芸術的な側面を感じさせてくれます。
で、セリフ毎に画を変える、とさらっと書きましたが、実際の撮影では、何個カット割っているだろう…?普通の映画より圧倒的に多いはず…、と思うのと、コンテ作成の時点でカット割りは設定しなければならないので、小津安二郎の頭の中では、コンテ作成時点で初めに分割したシーンを再構成した動画があるわけで、監督の頭の中はどうなんているんだ!?、と驚かざるを得ないのです。
しかも、シーンを再構築したとき画の切り替えのリズムがなんとも心地よく、これは2.の落語の間と同じような手法を取っていると思われます。
さらに、この映画は、これだけ幅広い要素が綿密に組み合わされているのに、セリフがとてもお洒落なのです!
そのくせ大事なもんはなかなか言えないもんだけどね。
そうだね、無駄なことは言えてもね。
たまには大事なことも言うもんよ。
なんて、なんともお洒落で、良い意味で大人の心にグサッときますし、そのフリを回収する駅でのシーンなんて本当にオシャレです。また、
I love you~
を日本映画でフランクに言えるところなんて、なんともにくいです。
最後に、この映画の監督である小津安二郎の大巨匠と自身が称したのは、
映画時代の終焉を、この映画で監督自ら宣言している
ところでございます。
これは直接的には明示してありませんが、この映画の1つのテーマがテレビになっているところがポイントです。
具体的に、この映画は1959年の映画ですので、まだテレビの普及率は低く映像によるエンタメはまだ映画が主流だったはずですが、これ以降は普及率が高まっていき、映像によるエンタメビジネスのメインはテレビに移っていきます。
つまり、ビジネス的には"テレビ vs 映画"という流れになり、映画産業は縮小フェーズに入ります。
これに、小津安二郎が気付かないはずがなく、それにも関わらず、この映画で堂々とテレビをめぐる日常あるあるを描く、つまり今後映画が廃れ、テレビが隆盛することを、この映画で暗に宣言するのです。
1959年時点では、それほどテレビとの対立構造は明確になっておらず、映画でテレビを描くことはタブーではなかったかもしれませんが、自身の映画監督としての名声を小さくするかもしれないテレビを堂々を自身の映画で描くなんて…
と、この映画と監督の小津安二郎の凄さを語ってきましたが、自身はこの映画から、向田邦子や森田芳光が思い起こされました。よって、この映画がこれ以降の日本の映画界に与えた影響はものすごかった予想され、邦画好きの方には非常におススメの作品となります!
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