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映画

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[映画]記事を年代順にまとめたもの
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#映画ノート

[理系による「映画」考察] ピグマリオン(1938) ➡神話をモチーフとした高尚な映画に見せかけて、本質は夫婦漫才、のラブコメ映画

上記な神話をモチーフとした高尚な映画に見せかけて、本質は夫婦漫才、のラブコメ映画です。 変わり者の学者が女性を洗練させるための英才教育を施しているうちに、いつの間にかその女性に恋をしていた、というストーリーですが、ラストの学者と女性の掛け合いが見どころですかね。 が、夫婦漫才に日常的に触れており、無意識にその領域への鑑賞眼が肥えてしまっている日本人には、その掛け合いの間があまりよくなく感じる(早すぎる)かもしれないです。 ちなみに、この映画を見てすぐに思い起こされたのは

[理系による「映画」考察] 黒蘭の女(1938) ➡ゴリゴリ理系男を混乱させる"女性という異形のもの"を描いた作品

"あれほど注意したのに、それでも我を通して、空気読まなかった自身が悪いんじゃん! なのに、うまくいかなかったことを人のせいにしとるがな! さらに反省するかと思いきや、またもや我を通して、周り利用して、かつ、不幸にして、自身の願望をかなえようとするのは、ありえへん!"、のツッコミ(すいません、混乱してて色々な方言が混じってます)がなんとも通じない、理系男から見ると"女という異形のものの情念"を描いた映画です。 主人公の感情は非論理的なので、ゴリゴリ理系としては大混乱なのですが

[理系による「映画」考察] 我が家の楽園(1938) ➡今、自身が一番身につけなければならない"寛容さ"の手本

仕事人間で"人間味"がなくなったことを気付かされる映画、って約100年前からあるんだ~(もともと演劇が元なので実はもっと前から)、の感想ですが、それよりかは、個人的に現在最も身につけなければならない"寛容さ"の手本となったので、それに関して記載します。 自身もそれなりに年を取り、会社にて、個人ではなく多くの人の協力を得て・意見をまとめてチームとして成果を出すことを求められるマネージャー的な業務が多くなりました。 その上で、今までのやり方に限界を感じつつあり、マインドセット

[理系による「映画」考察] 名探偵コナン 黒鉄の魚影(2023) ➡10代カップルが見るのに何から何まで合理的!

小学4年生の娘から見たいとのリクエストを受けて観に行きました。 いつものコナンらしさ+ラブコメに、機動戦士ガンダム、ルパン三世、宇宙戦艦ヤマト、ふしぎの海のナディア、エヴァ、等々が色々入ってますが、なんとなく"ふしぎの海のナディア"を意識されたかなと(と言っても、ほんのちょっとですが)。監督の立川譲さんは81年生まれとのことで、リアルタイムで見ていてもおかしくなく、なんだか懐かしかったですが、細かい点は専門家にお任せします。 自身がこの映画で驚いたのは、観客です。時間帯が

[理系による「映画」考察] ゾラの生涯(1937) ➡体制・大勢への反骨、すなわちパンク

表題を説明する前に、まずは"パンク"の定義をしたいのですが、個人的には下記の3つがあると思います。 ① ファッションとしてのパンク ② 自由を求めた体制・大勢への反骨としてのパンク ③ その後の価値観を全く変えるパンク ①は、セックス・ピストルズのような服装(ファッション)を意味しています。 ②は、文字通りです。 ③は、美術界で言うと、デュシャンの泉、のように、その後の美術の認識を変えるほど破壊力のある価値観の革命、を意味しています。 ちなみに②と③は明確に区別できず、

[理系による「映画」考察] 巨星ジーグフェルド(1937) ➡紳士という名の色気

豪華な舞台演出の再現が目を引きますが、個人的には、ウィリアム・パウエルの女性を虜にする"男の色気"が気になりました。 "グランド・ホテル"のジョン・バリモアしかり、"或る夜の出来事"のクラーク・ゲーブルしかり、1930年代の映画は、"男の色気"がムンムンする映画が多いのですが、あの色気って何から来るんでしょうね? 必要条件として ・スーツの着こなしがオシャレであること ・髭がセクシーであること ・スタイルが良いこと が考えられますが、一番大事なのは ・紳士(ジェントルマン

[理系による「映画」考察] 赤西蛎太(1936) ➡お笑いの"天丼"(ボケを繰り返すこと)と"間"を多用する落語的傑作映画

よくある時代劇的なやつに歌舞伎っぽさを加えた映画かな、とあまり期待せず観たのですが、全く異なり、"知的に人を笑わせる"という分野における傑作でした! まず、全体的なバックグラウンドは落語にあると思います。按摩の安甲の演技自体はそのまま落語家ですし、江戸時代を舞台とした人間味あふれる創作ストーリの中にお笑いを混ぜてくるところが、落語の映像化を試みた作品とも言えます。で、実際、落語で笑ってしまうのと同じ笑い方をしてします。ここで言う、"落語で笑ってしまう"、とは比較的長いストリ

[理系による「映画」考察] 或る夜の出来事(1934) ➡理系の天敵"ラブコメ"だが、大傑作で完敗。あまりの素晴らしさに最後は拍手してしまった...

理系の天敵"ラブコメ"ですが、完敗しました。敗因は脚本です(アカデミー賞主要5部門ですべて賞を取っているので、あくまで個人の感想です)。 理系の能書きを垂れると下記になります。 後半モーテルでの、"海に飛び込むのが好きな女の子"、に対する、初っ端の綺麗なフォームによる海への飛び込み、による回収。 終盤の、"彼女には殴ってくれる相手が必要だ。あなたがやるべきだった。"、に対する、初っ端の親父さんの平手打ち、による回収。 しかし、なんと言っても素晴らしいのは、最後の、"ジ

[理系による「映画」考察] グランド・ホテル(1932) ➡群像劇多重構築(映像的キュビズム)成功の理由は個別の劇にテーマを与えなかったから

にくい!、うまい!、やられた!、 と唸ってしまうぐらい良く出来た映画です。 ホテルを舞台に、異なる人々のうつろいゆく営みを重ねながら1つの作品として成立させる"群像劇多重構築(映像的キュビズム)"に成功した希代のコメディ作品ですが、論理的な側面だけでなく、"常ではない"という意味での無常感から来る寂しさもちゃんと要素として組み込んでおり、それを意図するために舞台としてホテルを選んだところが、なんともにくいです。 で、表題の"群像劇多重構築(映像的キュビズム)"に関してです

[理系による「映画」考察] 上海特急(1932) ➡マレーネ・ディートリヒの妖艶さはクラナッハ作品をアメリカナイズしたもの

"上海特急"自体を一言でいうと"大人のラブコメ"なので、映画考察はここまでとして、今回のテーマは"マレーネ・ディートリヒ"の妖艶さはどこから来ているのであろう?、になります。 で、Wikiを見たことろドイツ人ということが分かり、ピンときました。怪しくセクシーな女性を描かせたら世界一のクラナッハさんからです。 クラナッハが活躍したのは1500年代初めで、それから400年経っており、かつ、アメリカ映画のスターなので、直接的な形で分かるわけではないですが、見出し画像から雰囲気と

[理系による「映画」考察] 民衆の敵(1931) ➡演技がうますぎる脇役による弊害

"民衆の敵"は主役はジェームズ・キャグニーです。 が、もう一人、主役を張れる役者がいます。ベリル・マーサーです。"七日間の休暇"では、ゲイリー・クーパーが主役ということになっていますが、実質的にはベリル・マーサーが主役であり、素晴らしい演技力です。 が、"民衆の敵"ではそのすばらしい演技力が残念ながらノイズになっています。"民衆の敵"はジェームズ・キャグニーのキャラが立てばよい映画であり、その他の役者は下手では駄目ですが、うますぎるとジェームズ・キャグニーのキャラのノイズ

[理系による「映画」考察] 間諜X27(1930) ➡世界恐慌時におけるハリウッドの戦略のうまさ

他の投稿でも書きましたが、1930~31年は映画史的に分岐点だったのかな、と思われます。 世界史を辿ると、 1914~1918:第一次世界大戦 1929:世界恐慌が始まる 1933:ナチスが独裁政権を樹立 1939:第2次世界大戦が始まる となっています。 ヨーロッパは、1920年代のフランスは、シュールレアリズムの盛り上がりから、エコール・ド・パリ展が1928年に行われのをきっかけに、身近な人々・生活を見直す流れとなり、"巴里の屋根の下"や"マリウス"が出てきたかな、と考

[理系による「映画」考察] マリウス(1930) ➡フランス映画にて庶民の生活を描くようになった理由

ゴリゴリ理系の私からすると、主人公とヒロインの役柄にツッコミたい点はありますが、そのツッコミが野暮になるほど洗練された映画でした。 今回はこの映画自体の考察ではなく、"巴里の屋根の下"も含め、1930~1931年に庶民の生活を主題とした映画がフランスの1つの流れとなった理由を考察します。 まず、世界史を辿ると、 1914~1918:第一次世界大戦 1929:世界恐慌が始まる 1933:ナチスが独裁政権を樹立 1939:第2次世界大戦が始まる となっています。 1920年

[理系による「映画」考察] モロッコ(1930) ➡理系の苦手分野

う~ん、ゴリゴリの理系からなのか、恋愛映画は、 現実的にあり得ないはずなのに、あり得そうに描き(そんな女性はいないし、男性もいない)、自身の言語化できる論理範囲から逸脱 の理由でかなり苦手なのです(妻からサイコパスと言われる所以かも)。が、なんとか記述を試みます。 理系的な視点からいうと 初っ端の強情なロバと、最後にロバ(ヤギかも)を引く表現は繰り返し、で、主人公2人が結局強情であることの隠喩。 フランス語を意図的に少しだけ入れることで、映画に色気をプラス。 序盤の"