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指揮パートとしての危機意識

BWV 1068のAir を8分音符の音楽で見ている間は、この音楽を4/4というオリジナルの形では演奏できない。そして、その8分音符に合わせた指揮をしようとすると、たぶん、その8分音符が薄っぺらいものに感じるだろう。結局、指揮は16分音符で指揮しなければならなくなる。だが、その指揮ではva以上のパートが音楽が見えなくなってゲシュタルト崩壊する。もはや、音楽というよりも、音響を鳴らすものになってしまう。

四分音符で指揮している「かえるのうた」を想像するとよくわかるだろう。その4分音符に指揮の打点を合わせる発想。「か」という音に対して指揮している不毛さを。それは演奏者にとって動体視力の訓練のようなもので、演奏ではない。そして、その不毛を感じない「せんせい」は自分の指揮に「合わせなさい」というだろう。そうなると、「かえるのうた」はもはや音楽ではなくなる。もしかしたら上手なマスゲームと化すかもしれない。

だが、実際、そういう指揮をしている場合は少なくない。

細分化すればますます細分化していかなければならない。アキレスは亀を追い抜けなくなるし、飛ぶ矢は動かない。指揮者がパートとしての自覚を持てず、君臨する王様や「せんせい」でいる限り、そのミクロ化は際限なく深まってしまうだろう。

音響に囚われてしまうと、もはや音楽ではなく、新興宗教的なものに陥ってしまう。ちなみにそういうところに堕ちてしまうと他者には攻撃的になっていくのはクラシック音楽の界隈でもよくあることだ。

この音楽は1小節めのvaの動きがヒントになるように、2分音符が音楽を動かしている。2分音符の響きをコントロールするためには4/4拍子の呼吸が必要であり、小節の6拍子という基盤がその下にある。1番カッコがあるから、0小節めのが存在するのも明確だろう。

指揮パートはその基盤を、アンサンブルに先行して動かしている。つまり、0小節目から指揮パートは動いている。その6拍子を2分音符で呼吸しながら指揮していく。
そうやって、音楽がやっと見えてくるのだ。

ブラームスop73の第1楽章、第2楽章の難しさはこの問題と似ている。4分音符で指揮していると音楽は見えない。響きばかり聴いてしまう。小節や拍子がどんどんと意味がなくなる。だから、難しいリズムが音楽から乖離してしまう。音が決められた通り鳴っていればいい、という状態になってしまうのだ。この音楽がなぜ3/4の動きから1拍ずれて進行しているのか。なぜ4/4のアウフタクトから始まるのか。そこに注意が向いていなければならないのだ。

そして、楽譜の設定から自分の指揮が外れていはいないだろうか。という危機意識が常になければならない。

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