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そのアウフタクトにどう接するか?

機械的に細かい音符を数える「足し算」の呼吸の人と、フレーズで歌える人とではアウフタクトが合わない、ということは少なくない。多くの場合、足し算の人たちが「合わない」と言うことが多いのだが、その原因を考えるとなかなか興味深い。

例えば、「エロイカ」第2楽章の開始だ。
4/8で数える人と、楽譜通りに2/4で数える人、さらにはフレーズ全体を把握している人とでは、そのアウフタクトの位置の見え方が違う。
足し算型の人にとって、そのアウフタクトは点のように厳密な範囲が定まっている。2/4やフレーズで見れる人にはそのアウフタクトは明確な点ではない。だが、彼らが合わせられるのは、音符ではなく、全体の呼吸から積分的にアウフタクトの位置が掴めているからだ。

そもそも、この第2楽章の骨組みはどうなっているのか?その主題は2つの小節が分母となった大きな4拍子の呼吸出来ている。つまり、問題のアウフタクトは、書かれていない付点四分音符分のインパクトが補完する形で、その位置を得ている。つまり、そのアウフタクトを開始するだめには付点四分音符分の重いインパクトが、もともと用意されているのだ。

楽譜を表面的にしか捉えられない、足し算の人には全くその目はない。つまり、起点と帰着点を把握するのではなく、それぞれの音符の持つ音しか見えていないからだ。

だが、聴いた記憶の支配によって、このアウフタクトに音楽的な意味合いを表現しようとすると、微分の視野の人には、「響きの充実」を図るために「遅いテンポ」を取らざるを得なくなる。そうやって、あの重苦しい音響の羅列が出来上がってしまうのだ。

フレーズで楽譜が見えている人がこのアウフタクトを合わせるのは呼吸の共有があるからだ。それは大縄跳びに入る感覚に近い。フレーズで音楽ができる人の演奏は、テンポの問題以前に、躍動的なリズムの弾みがある。このアウフタクト自体が持つ付点リズムも、機械的なカウントとは比べられないくらいに、アバウトだが、一方で生命感に溢れている歌い方ができている。

指揮者という存在はこれらの融合のためにあるとも言えるように感じる。自分のような古典中心の演奏をしている分野では、微分の立場はあまり良い結果に繋がらない。

さて、エロイカの場合よりも、もっと顕著なのはK.550のandante のアウフタクトだろう。小節を分母とした4拍子。そして、この4拍子の「1拍め」は0小節にあること。この骨組みの把握が出来ていていない人とのアンサンブルは極めて難しい。アウフタクトから歌い出す、その帰着点をみる目がまるで違うからだ。八分音符をひとつひとつ丁寧に鳴らすのか、3/8で数えるのか、そのどちらも拍節が見えていない音符対応の呼吸だ。そういう人にとってアウフタクトは、点でしかない。小節の6拍子で歌う人が見ている余裕の幅がまるで違うのだ。

ミクロ視点の職人にはその幅が見えてこない。音楽をするのか、一糸乱れぬマスゲームをするのか、その差は大きい。

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