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指揮棒が下りるまで

ブロムシュテットさんが初めてNHK交響楽団と共演したころのコンサートレポートにこんな話があった。

悲愴か何か、あの手の終わり方をする曲で、お客に拍手をさせないような、緊迫感があった。背中で観客を圧倒す力があった、という。


反対にベームさんの演奏は、何かしらフラ拍を誘い出すような空気感があって、ちょうどよいタイミングで拍手が起こる印象がある。

それは厳しい演奏家であった壮年期のサヴァリッシュさんとは対照的だった。演奏が素晴らしく興奮を誘うものであっても、何かしらブラボーがいい難い、緊張感が抜けない感じがあった。その空気感の圧倒的な支配力がすごかった。


曲の終わらせ方というのにも演奏者の呼吸や、構造の把握が影響するものなのだ。


さて、ベートーヴェンop68の終わらせ方は難しいようで、普通は楽譜と違う終わらせ方になる。つまり、楽譜には書かれていない急激なリテヌートをして、大見得を斬るように終わらせる。


この終わらせ方の、いかにも「お約束」なその締め方には抵抗感がある。


もちろん、若干のテンポ操作はあるにしても、あれはやり過ぎた「悪習」だ。その使い古されたお約束に無批判に従うべきではない。だが、そもそも、三角3拍子で呼吸してしまっていることが間違えのもとなのだ。



楽譜から、曲の構成を捉え、どうしたら最後の小節が帰着点になるのかを考察する必要がある。


だがその結果は、最後の小節は帰着点ではないということになる。書かれていない次の小節が本当の意味での帰着点なのだ。


音楽は2つの小節を分母として、爽やかに流れていく。それは終結部でも同じだ。終結部は2つの小節を分母にした4拍子による237小節めからの祈りから始まる。その4拍子のための1拍目が235と236小節目であり、そこから2つの小節を分母にする大きな4拍子が3回転し、260小節目に至る。


そして締めは、


①260 261   ②262 263   ③264 265 


で終わる。


だが、運動性が見えている人には分かるように、これでは265小節目の4拍目にあるフェルマータのオチが付かない。ここには必然的に書かれていないフェルマータの解除拍が補われる。つまり、書かれていない266小節目の存在が明らかになる。そこで初めてタクトが下ろされる。


拍節としてはその改めて置かれる1拍目によってオチがつく。つまり、266小節目が与えられることで音響は論理として形が結ばれる。


音しか捉えられない者には目に見えない266小節目などあるわけがないだろう。音響自体を音楽として受け止めてしまう人にとっては休符のフェルマータなど問題ではないだろうが。


指揮パートとしてはメンバー皆と共に、このフェルマータ解除まで、場の空気感を支配しなければならない。

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