下山の過程
メンデルスゾーンop56の第1楽章の見事さは、あれだけのクライマックスを築いておきながら、あそこからよく引くことができることだ。ハイドンや、ましてやモーツァルトならあっさりと次の段落へ切り替えられる潔さがあった。それが古典。hob:104第1楽章の展開部のあの終わらせ方。あんなに昂揚させたのに、何事もなかったかのように再現部が始まる。大人の嗜みというか、おふざけなのか、でも、そこが、実にハイドンなのだ。
終わらせ方といえばブラームスop68の第1楽章も強引で面白い。allegroからmeno allegroに進む時の、あの強制ブレーキのような楔の打ち方は印象的だ。
でも、メンデルスゾーンはそんな割り切ったことや強引なことはできない。確実に段階を踏んで、聴く側も納得出来る収め方が必要になる。
下山というのは登山よりも難しい。登り詰める昂揚は楽しいけれど、下るための慎重は疲れもあって辛い。op56第1楽章ではそのクールダウンの過程が実に見事なのだ。
さて、ベートーヴェンop125第1楽章の終わらせ方は、メンデルスゾーンのロマンに比べれば十分に古典的ではある。だが、形式的な材料を構築して、上手に昂揚を収めている。
op125第1楽章の下山の入口は469小節目に見られる。そこで、拍節の切り替えによって、下山道に入る仕組みになっている。そこまで4つの小節を分母とする激情的なドラマを展開していたが、ここであっさりと通常の2つの小節による分母に変更される。知らないうちに台車が入れ替わっているような感覚を覚える。
そして、さらに506小節目からの2度にわたるrit とa tempoの揺り動かしの末に、小節を単位とする冒頭と同じ拍節単位に戻る。用意周到な下山の過程がそこにはある。
513小節目からの終結部は、512小節めに一歩踏み込んだところから小節の5拍子から始まる。冒頭のフレーズは小節5拍子だった。この楽章の結論として、そこに戻ろうとしている。この下山の過程はその冒頭の5拍子は苦節に至りつくことなのだ。
続けて小節の4拍子と6拍子がリレーするこれも5拍子への意識である。そこに3拍子拍節を挿入し、今度は逆に通常の音楽のスタイルである8小節グループを作っている。このフレーズに焦点を合わせるための、そして、自然な大団円で音楽を終わらせるために長い長い下山なのだ。
良い下山はこのような見事な計画に基づく。この楽章が立派な構築を持っている印象を放っているのは、このためなのだろう。