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意味が見えてないから誇張してしまう
20世紀前半ごろの演奏誇張が多い。というか、ワインガルトナー辺りからの流行りとか、クラシック音楽のある種のお約束なんだろう。現代でもそういう名残を見ることはある。D759などはそのような誇張の典型で、特に第1楽章85小節目辺りは、この演奏、一体どういうつもりなんだろうなんて思ってしまう。
これまでの流れとは全く関係のない、巨像が立ちはだかるような…。こういうのには辟易する。
そもそも、このallegro moderatoが三角3拍子で執られている時点で、捉え方が間違えられている。そして、問題の85小節目からの巨石群は、実は、83小節めからの、2つの小節を分母にした5拍子フレーズである。これは36小節めアウフタクトからの小節の3拍子フレーズからの「こだま」である。その誇張したリテヌートを止めて、インテンポで取り抜けようとすれば、このこだまの姿がよく見えてくるだろう。
さて、伝統的なこの85小節目のリテヌート風な誇張は、音響に囚われて全体像が見えていない典型だろう。2つの小節を分母にした大きな5拍子として括ることができないと、文脈としてこの部分の意味を理解し難い。
複雑に見えるものごとも整理すれば見えてくる。因数分解や素因数分解は数学的な基礎技法であるとと同時に、論理の整理のヒントでもある。論理としての西欧の「クラシック音楽」は数理的な法則性の上にあって、整理することができる。五線譜、小節、テンポがあることによって、これらの法則的な運動は平面の図形の中に収めることができ、その読み方が分かれば、その運動性を解凍することができる。
背景とか、蘊蓄とかそういう楽譜外の情報に頼ろうとするのは、そういう楽譜のあり方から考えると邪道なものだと思われる。そこは趣味としてのお楽しみの問題でしかない。D759がなぜ「未完成」なのか、という空想よりも、そこにどんな思想が反映されているのかというロマンよりも、大事なのは楽譜の運動性の解読自体でなくてはならない。そのロマンを演奏に反映するというのは思い込みでしかない。
楽譜から考えることよりも、なぜ楽譜の外の情報を先に優先しようとするのか、とても疑問なのだ。