音楽は形で演奏しなければ伝わらない〜K.550のメヌエット
BWV1067のサラバンドはとてもわかりにくい音楽に聞こえる。だが、それは演奏の問題だ。音符を数えるような音並べの、遅いテンポの状態ではこの音楽は複雑すぎて掴みにくい。それは形が見えてこないからだ。
音符を数える状態というのは音に近過ぎて、響きしか聞こえてこない。だからメロディをメロディで追いかけるようなこの曲の作りが見えてこないのだ。
これと似たような現象はK.550のメヌエットにも見られる。形が見えてこない音並べの演奏では厳つい骨ばったリズムの断片しか見えてこない。正しく演奏されるとシックなダンス音楽に聞こえてくるのだが。
これらの失敗は演奏者が音楽の形を見ていないことに起因する。小節による因数分解ができていない、そして論理の形が見えていないのだ。
音楽は音符が作るというよりは小節の運動によってできている。音が並んでいるだけでは音楽にはならない。小節の運動か先にあって、その中を音符や休符が分割している。つまり、小節を動かさなくては音楽は始まらないのだ。
BWV1067のサラバンドの場合は4つの小節が分母となった4拍子で出来ている。
例えば、最初のリピートまでは
「①0123 ②4567 ③891011 ④12131415」
の形で出来ている。
この外形が見えるように演奏すると複雑に聞こえるこの曲がとてもスッキリと見通せるようになる。メロディがメロディを追いかけるこの作品の風景がよく見えてくるのだ。
K.550のメヌエットの場合は、通常のメヌエットより大きな拍節で出来ている。シンコペーションのリズムとこの拍節がこのメヌエットをわかりにくくしている。例えばK.551なら
①0 0 ②1 2 ③3 4 ④5 6 |①7 8…
という二つの小節による4拍子である。これはシンプルな構成なので聞き取りやすい。だが、K.550のメヌエット主題は二つの小節による7拍子で出来ているので把握しにくいのだ。
演奏者側がこの外形を把握しているかどうかにかかっているのだ。
音響が巨大すぎて音楽が見えてこない。このような問題はクラシック音楽には少なくない。
ブラームスop98第4楽章もその典型的なひとつだ。シャコンヌテーマがあまりも巨大すぎて、作品の形が見えてこないのだ。二つの小節を分母とする4拍子がこの楽章を推進しているはずなのだが、シャコンヌテーマの音響に注目し過ぎて第1主題が見えてこない。いや聞こえるのだが、第1主題としてではなく第五変奏に成り下がってしまうのだ。並び合うものが全て均質的で巨大すぎて作品の起伏がなくなってしまう。そういう失敗を起こしやすい状況になっているのだ。
音符を数えるのは初見の段階の譜読みだ。だが譜読みの本当の目的は作品の形を見出すことなのだ。そのアプローチのひとつが小節の因数分解の試行錯誤である。となり合う音符が均質であってばならないのと同じようにとなり合う小節が均質の連続であってはならない。その原則性から楽譜を読んでいくと小節が果たしている意味がわかる。小節こそが単位なのだ。
音符では音楽は捉えられない。小節の構造を掴まなくては音楽の外形は見えてこない。枠組みの見えないものは形にはならない。それでは「論理」にはならないのだ。
つまり、演奏する上でまず大事にするべきなのは「外形」が見えるようにすることなのだ。