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ハイドン交響曲第93番の場合でみるadagioのテンポ感

エロイカの冒頭はなぜ、2つの小節の使って開始されるのか?

それは、その音楽が2つの小節を分母としていることを表しているからだ。それは作者の意図の問題ではない。音楽というものが論理であるからだ。音楽は音を秩序立てたもの。そこにはそれなりの理屈、数理的な約束が伴う。

この2つの小節によるインパクトはかなりの迫力を伴う。そこにいろんなロマンを感じることは出来る。
でも、それだけでなく、理屈として、2つの小節という単位が示されていることは読み解くためにも大事な鍵なのだ。

この鍵で楽譜を読むと、最初のフレーズは、この2つの小節を分母とする6拍子であることが分かる。6拍子は、ある意味、焦らしの効果を伴うクライマックスを誘い出す劇場効果的なものだ。これを冒頭から打ち出して来るのだから、それは勇壮なものになる。この作品の勢いを見る思いがする。

この作品がどんな背景を持って編み出されたのかよりも、このことは大事な問題だ。この作品をエロイカと呼ぼうが、英雄と呼ぼうが、英雄的と呼ぼうが、そのことよりも、自分にとっては、楽譜の事実の方がはるかに問題だと思うのだ。音楽を読み解くとはそういうことなのだから。

さて、写真はHob1:93の冒頭部分。これも、2つの小節を分母としていることが分かりやすい楽譜になっている。そして、これを鍵として見ると、この序奏は、2つの小節を分母とした4拍子で始まる。そして、それは次には5拍子として受け継がれる。

そして、その5拍子の運動を序奏最後の2つの小節が受け止めてallegro assai に放り投げる。

この序奏と主部の間には拍を越える空間を置かないのが楽譜の主張である。つまり、フェルマータがない。4分休符があるだけだ。流れの中で緩急が入れ替わる。
そして、allegro assai もまた2つの小節を分母として動き出すことは明白だ。主部と序奏の呼吸的な断絶はない。

この楽譜での序奏と主部の入れ替えを見ていると、テンポ感というものを考えさせられるのだ。

BWV1068の序曲の緩急対比のように音符の速さを変えない緩急対比のやり方があるが、このHob1:93の場合もそれに思えるのだ。もちろん、全く1:1ではないにしても、2と1の対比にはならないのではないだろうか。その間には。数値的に見ると信じられないくらいの近似値しかないのかもしれない。

こうやって見ていると先日話題にしたベートーヴェンop125のpoco adagio のテンポ感の話もこれに似ている。adagioというと大きくテンポの取り方を変えてしまう傾向がある。それはメトロノーム的な数値の影響が強い。メトロノームやクヴァンツの脈拍によるテンポのように、テンポ感というものをパルスで考えがちだ。だが、実際はそういう極端な緩急対比の原則などなかったのではないだろうか。とさえ考えてしまう。

少なくとも、このHon1:93の場合、adagioとallegro assai との明確な1と2の対比は考えられない。

耳で聴いた記憶ではなく、この楽譜からこの序奏のテンポ感を考え直してみると、adagioが遅いというよりもゆったりという雰囲気に感じられるのだ。

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