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音に囚われて音楽を見失ったら「自由」にはなれない

チャイコフスキーop36の第2楽章の、このオーボエによるこの主題を演歌のように歌い上げる。ひとつひとつの音符に哀愁が籠ったような切々とした歌い方。心に染み入るオーボエの音色。

そういうやり方をするとなんだかすごい名演のように評価される。演奏時間をかなり引きずり、いかにもたっぷりとしたその演奏は、所謂クラヲタという人たちを唸らせることだろう。

だが、それは楽譜をみる限り正しくはない。それは「音並べ」「音鳴らし」に過ぎないからだ。たしかに、そのように吹くと、楽器が良く響き、音響としては美しい。
だが、これを耳コピして楽譜にしたとすると、オリジナルのそれと同じになるだろうか?

耳で聴いた音楽には、こういう罠が待ち受けていることは多い。

感動的ならそれでいいのか?

僕はそこに大きな疑問を持つのだ。例えば、バルビローリとウィーンフィルによるブラームスの演奏だ。遅いテンポでたっぷりと歌い込み、美しい和音の音響が黄金のホールに満ちていく。そこには世間でいうところの人生の諦観に沈む老作曲家のイメージにピッタリの雰囲気はある。「薄幸の美学」なんて称賛する評論家もいた。

だが、それらの楽譜とそこに流れる演奏とはかなりのギャップがある。この演奏は作品に対してではなく、世間一般のイメージに対して忠実なそれであり、いかにも商業的なものが横溢しているようにさえ感じる。op73以外はやり過ぎと言わざるを得ない。さらには、そういう演奏を抵抗もなく受け入れる批評家の姿勢には疑問を感じる。こういう商業主義的な意味での作られた名演は、せめてキルケゴールの言うところの主体的真理のレベルに留めて置くべきだろう。そうでなければ当時のこのレコーディングのプロデュースの好い鴨でしかないなのだ。

さて、このチャイコフスキーop36 の第2楽章の場合も、聴いたイメージで楽譜をなぞるのをやめて、楽譜から音楽を掘り出さなければならない。

この主題は2/4で設定されている。4/4ではないのだ。
ここに秘密がある。小節の幅を狭く保っているのは、歌い方に節を持たせたいからだ。例えば、このメロディーに対する最初のクレシェンドは5小節から次の小節にかけてかかっている。その昂揚はしかし、7小節めのデクレッシェンドによって収められる。結果としてこの7小節めの入口に重心が置かれる。これと同じように15小節め、17小節目に重心がある。これらには規則性がある。これらの< >の抑揚の規則性は、つまり奇数小節かと偶数小節との結びつきを表す呼吸であることが読み取れる。

つまり、この主題は古い時代のラルゴの楽譜の使い方と同じように、アップの呼吸をする小節と、それを受けてダウンの呼吸をする小節との、2つの小節の結びつきを分母としているのだ。

この分母をヒントにこの主題の起点と帰着点を探ってみよう。1小節は、先の法則性から逆算すると、ここは「渡し」のアップの小節であることが読み取れる。つまり、0小節めを仮設して読むことが出来る。そして、ここを起点に8小節め9小節めに帰着する「往きの4拍子フレーズ」が見える。対して「返しのフレーズ」は19小節めと20小節目に帰着する息の長いフレーズとなっている。結果として、2つの小節を分母とする大きな6拍子を構成している。

この「渡し」のアップの小節と「受け」のダウンの小節との関係の運動性を活かすために2/4という設定が選べれている。つまり、この「渡し」→「受け」の関係は「短い」間隔で行われる。この運動性が見えているとテンポ感は軽くなるだろう。こうした楽譜の造りが見えているといると「名演」に騙されることなく、自信を持って楽譜から演奏が出来る。

音響や耳で聴いたイメージから演奏すると、音楽の形をみることができない。そうすると音響に縛られてしまうので、自由さは失われる。メトロノーム的なリズム感に囚われてしまうのは、自分自身がテンポをキープできないからなのだ。自由さはむしろ楽譜を見ている側にあるのだ。
遅すぎるくらいのテンポの方が自由が効くと思うのは、むしろ、その本人のやっている演奏、あるいは演奏イメージは完全に作品の「音楽の形」を壊しているからとも言える。つまり、音を繫いで形を統べているものがもうなくなっているからなのだ。それを「音鳴らし」とか「音並べ」というのだ。

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