相手の話は最後まで聞かなきゃわからない
ベートーヴェンop37の第3楽章は小節の4拍子のように演奏されがちだ。だが、その捉え方では、4小節めで全体にスラーがかかっている楽譜の狙いは活かされない。
この主題の分母を間違えると、この4小節頭にある付点八分音符に運動を帰着させてしまうだろう。だが、そう取られることのないように、このスラーは記されている。つまり、ここに足をおろしてしまわず、その先に向かっていくことを望んでいる。そのためのスラーなのだ。つまり、このスラーのおかげで、フレーズはこの小節で終わらない。この付点八分音符に運動は帰着しないのだ。
ではどこに降りるのか。それは8小節めである。この運動を成り立たせる法則性は、2つの小節による4拍子である。このグルーピング観でいくと問題の4小節めは「3拍めの裏」になる。運動の途中の段階にとして把握できる。そして、その運動は1小節めの前に2つの小節があることを認めることになる。
耳で聞いただけで、無意識にグルーピングをしてしまうと、このような罠に陥ってしまうのだ。「楽譜から考える」をしないとこのような罠を恐れながら演奏しなければならない。
ハンガリア舞曲第1番も罠に嵌まることが珍しくないフレーズから始まる。
無意識のままだと、小節の4拍子で始めてしまう。だが、その呼吸では、5小節めから次にまたがるタイが、収まらなくなる。このフレーズは小節の6拍子、というより、5小節めと6小節がタイで括られていることを考えると、2つの小節を分母とした3拍子という捉え方が自然だろう。
①0 0 ②1 2 ③3 4 |①5 6…
感覚的な捉え方を修正するためにも、楽譜を見なくてはならないし、楽譜を読む時、自分の感覚をなぞってはならないのだ。
言葉が文として脈絡を持つ時、そこには、必ず落ち着くべきポイントがある。日本語で言うところの「述部」であり、ドイツ語や英語で言うところの「動詞句」である。そういう「形」があることによって、意味を紡ぐ文はひとつの脈絡として落ち着く。「帰着」があるから、ひとつのまとまりとして「落ち着く」のだ。
だが、文や文章が読めない原因の一つは、そのまとまりを待てないで、自己解決してしまうからだ。話し手の論旨とお構い無しに、何かしらの帰着点を見つけては、勝手に意味を結んでしまう。それが、文章が読めない人の失敗の原因なのだと思う。
音響についても、それと同じことがあるのだと気にするようになった。
このベートーヴェンop37の例などはその典型。実は、最近読んたフレーズのことについての専門書がこの罠にハマっていたくらいたから。感覚的な理解が楽譜を越えてしまうとそのような失敗に墜ちてしまう。
自分の感覚とその楽譜が違う、という時ほど大事な発見のチャンスなのかもしれない。
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