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この8分音符をどう捕まえるか?

ベートーヴェンop125第1楽章2/4のこの80小節目のvnパートのアウフタクトを79小節めの動きの反動としてと捉えるのか、8分音符を3つ数えて発音するのか。その結果はまるで違う。

後者の場合、アウフタクトで始める運動的な意味がないからだ。音は出ていても、それは音楽のリズムとして死んでいる。

前者の捉え方はそのシンコペーションが生きた躍動を持つ。だが、この捉え方ができるためには、フレーズ全体の骨格が見えていなければならない。

この音楽は79小節めをきっかけに小節を分母とする大きな4拍子を形成している。だがその前のフレーズでは35小節目以来ずっと2つの小節を分母として動いて来ている。だから、79小節目は替り目として大事な位置にある。

79小節目でそこに踏みこむことでギアチェンジが行われる。演奏者がそのギアチェンジのための踏み込みの角度を把握していなければならない。起点を踏み込む時に。帰着点が見えていなければジャンプはできない。

こういう箇所を考察していると、微分と積分についてが思い起こされる。音楽において大事なのは積分の視野だ。微分の視界では点しか見えない。もちろん精度を高めるためには必要なことだが。積分の視界は広く先を見通すことに繋がる。曲線と座標とが作る面積を相手にするこの視野はフレーズの結びつきを考える上で大切なのだ。

大切なのは、そういう対照的な捉え方の2つの視野があることを知っていることなのだ。

79小節目を起点に音楽は4つの小節を分母とする推進力の強い音楽になる。そして、この4つの小節を分母とするさらに大きな6拍子が大きな弧を描いていく。この大きな翼の羽ばたきが見えていなければ、この第2主題の解放感と加速感は表現できない。ここは冒頭の締め付けられるような緊張感と全く別の空気感が広がる。

その差別化に気が付かないから不動の巨大構築になってしまうのだ。この楽章の複数のテンポ感の描き分けがまるで死んでしまう。

音符を音にするのが精一杯だった時代の微分的な視野での演奏から脱却できないと、この楽章の若々しい息遣いは見えてはこない。

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