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リズム構造という背骨

BWV1068の2/2ガヴォットの開始のフレーズは小節の4拍子であり、アウフタクトのある0小節目頭には裏拍での発音の前に強い踏みこみがある。

0 1 2 3 |4

そうでなくては、このガヴォットのフレーズはリズムを失った「よいこのおがっそう」になってしまう。

このフレーズは裏拍にアクセントを持つ、いわゆるバックビートの音楽なのだと把握すれば理解しやすい。冒頭には書かれてはいない表拍の踏みこみがあり、その反動で音楽は立ち上がる。その書かれていない「表拍」への踏みこみを自分のものにすれば、音楽はコントロールの下に置くことができる。アウフタクトのリズムがひとつの形として音楽を立ち上げていく様が再現されていくのが面白くなる。

だが、鳴っている音しか聞けない耳ではその把握は難しい。
駅での英語アナウンスに耳を傾けてみよう。日本語では抑揚のない「普通電車」が英語ではリズムのある「local train」となる。この英語にリズムを感じるのは「local |train」という小節構造が感じられるからだ。つまり、「train」にオチがつくように、アウフタクトとタクトの関係が成り立っている。日本語の標準語にはこの感覚がない。音声の足し算の結果しかないのだ。英語やドイツ語のような言葉には単なる音声の足し算の前に、ある種のリズムのテンプレートがあって、それの上に言葉が乗っている。そのリズムパターンの中に納まるように発音が意識される。だが、日本語にはそれがないのだ。音声をただ足し合わせて、結果としてそれが言葉になっている。337拍子が調子よく聞こえるのは、日本語には珍しいリズムパターンに納まる「ひとつ」がそこにあるからだ。
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「337拍子」は4/4拍子のリズム感の上に成り立っているが、こういう定型が先にあるのは日本語の環境としては珍しいのではないだろうか。だが、英語やドイツ語の言語環境は、タクトに落ち着くように発音が為されないと、落ち着きが悪くなる。日本人のカタカナ英語が伝わらないのの一つはそのリズム感の問題もあるのだ。「water」が「ウォーター」では通じにくいのに「ワラ」なら通じやすいという話があるのもこれに関係があるだろう。
音が発せられているものだけでなく、リズム構造で把握しようとする彼らの感覚はリズムとして「足りない部分」を補正して捉えているのだろう。それに対して、言葉にリズムの背骨を持たない我々には、このガヴォットのようなリズムの把握は難しいのだ。

さて、ベートーヴェンop125の第2楽章vivace moltoの理解も、このガヴォットの把握と同じだ。前回話題にしたように2小節め、4小節めの総休止には暗黒星のような引力がある。同様に0小節目にもそれが有るのだ。その強力な引力に従った強い踏みこみの反動によって1小節めは立ち上がる。そのような

①01②23③45④67|①8

という骨組みがこの冒頭を支えている。このリズムの構造が見えると単調に感じるこの第2楽章が俄然面白くなるのだ。

単調でつまらない、リズムに張りがないと思うメロディーに出会うことがある。先日話題にしたベートーヴェンop125第4楽章における6/8のリズムにで歓喜の主題が歌われるあのクライマックスもその類のひとつだ。(これは西洋文化圏の人たちも間違えていることが多いのだが…。)
そんな「つまらない」「単調」を感じたとき、案外、自分が「リズム背景を間違えてとらえているのではないだろうか」と疑ってみると発見はあるものだ。

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