指揮図形が「一筆書き」なの理由
指揮はカウントを取るという役割よりも大事なことがある。それは「ひとつ」の秩序で小節群を束ねるという役割だ。例えばベートーヴェンop55第1楽章の例のヘミオラ4小節における6つの4分音符群を鳴らすよりも、これらを秩序の中に収めることこそが、指揮パートの役割なのだ。このリズム感をメンバーに説明するよりも指揮者が小節の4拍子の中にまとめられる振り方をしたほうが早く解決する。経験上、そういうことが少なくない。
指揮者の描く図形が一筆書きであることにも関係がある。突如のないバラバラな点を示すのではなく、それらがひとつの図形としてまとまっている前提で動くからなのでろう。
別な言い方すれば、起点と着地点明確にあるからなのだ。メルカトル図法における地図上の直線と大圏航路の違いのようなものだ。
ヘンデルの「王宮の花火の音楽』の冒頭も小節の6拍子としてまとめられなければ、聴いた感覚に騙された拍節設定が壊れた演奏しかできなくなる。また、BWV1068のジーグは4つの小節を分母とする大きな6拍子だ。
指揮パートはこの秩序の骨組みを指揮しなければならない。やたら骨ばった付点を強調したり、ダラダラとする演奏に落ちるのはこの秩序が見えていないからだ。細部の誇張の前に曲自体の秩序が見えていないのだ。
ベートーヴェンop125の第2楽章も単に付点四分音符四分音符で振っているだけでは、結果でしか作品を示すことができない。小節がどのようなまとまりでフレーズを作っているのか。その描く軌跡が見えていなければ指揮は単なる点の集まりにしかならない。つまり、意味を語ることができないのだ。
冒頭はvivace構造の4拍子で始まり、続くメロディは2つの小節による6拍子から始まる。その先もフレーズがどのような造りになっているのかを掴むところから始まる。この複雑な音の動きの秩序を捉えない演奏では、この曲は聴くのが辛くなってしまうのだ。そうではなく、この複雑で凸凹なコースをいksに合理的に駆け抜けられるか。そのスリリングさこそが必要なのだ。
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