全体の中に割り振る
実存主義の思想は、優れた個人が先にあって、その個人がそれぞれに努力をして社会を形成しているという発想になる。だが、構造主義の発想は、そもそも社会が先にあって、その中に生じる個人は社会構造に規定されるというものである。この視点の使い分けは生きていくうえで、役に立つことが多い。
仏教も、おそらく個人が個人としてだけいきていくことは不可能であることを、まず「諦める」ことが前提にあるように思う。
「個」が「個」であるのは相対的な世界にいる限り難しい。
それは音楽と響きに違いに関係があるように思う。
mm値の発想では音楽は見えない。音符が集まって音楽を作るのではない。
k.550のanadanで失敗するのは8分音符で数えていることだ。細かい音符の足し算は、このような楽譜の場合では短音の羅列にしかなれない。結局、8分音符の響きを優先してしまうから、テンポは遅くなり、響きは並ぶが音楽は見えなくなる。
音符を並べて小節を埋めていく、という発想よりも大事なのは、小節の中に詰め込む、割り当てるという捉え方だ。ベートーヴェンop68の第2楽章のような楽譜を扱う時には、特にそうだ。
この主題は6小節目に帰着するのは見える。運動自体は、小節の6拍子で進行する。
0 1 2 3 4 5 |6 …
この運動を優先的に見据えておいて、音符を割り当てる。つまり、付点4分音符に6連符と捉え、付点2分音符の中に12連符を割り当てる。
小節の6拍子という運動で指揮パートは呼吸していく。この外形が先にあるから、テンポが無意識に淀むことはない。
音符を基準に見ると、自分の位置が分からなくなる。テンポ感も見えてこない。だが、この外形で指揮を行うと分かると、この音楽の推進力が見える。大河ではなく小川の流れが実感出来る。
ブラームスop98の第2楽章も、8分音符の3拍子の2つ並びのように演奏してしまうからandanteで歌えなくなる。さらに音響に囚われてしまい、テンポが維持できず遅くなる。
楽譜を見れば分かるように、冒頭は4小節目に帰着するから、0小節目に起点を持つ小節の4拍子という外形が見える。その外形の運動の中に分割的に音符を割り当てていく。音符基準では音響しか扱えない。
これはチャイコフスキーop64の第2楽章にも言える。これもandanteの音楽でありながら、響きに翻弄されて8分音符に支配されてしまう演奏になりかねない。
そもそも冒頭のコラール的な前奏が音楽になっていない。小節の4拍子が見えてもいないのに、響きに尤もらしさを先に求めてしまうから外形が見えない。その流れの見えていない音響の羅列のあとに入るホルンのソロが外形を保てているはずがない。響きのすばらしさだけしかそこには残る。これが音楽なのかどうかは終始疑わしいと思う。
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