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見えない存在を補う力

楽曲を、聞こえない音、書かれていない音符も補って捉える。それができないといわゆる西洋の音楽、あるいは五線譜の音楽は正しい位相で把握できない。

五線譜の小節は基本的に等間隔に区切られている。容数は決まっている。フレーズを中心に考えると、その不思議や小節の中は割り算的な捉え方になる。

ブラームスop73の第2楽章3/4adagio ma non troppo は、その開始がアウフタクトの四分音符になっている。だが、その四分音符の前に付点2分音符分の空白があることを読めなければ、この音楽に乗ることはできない。というのも、この冒頭のフレーズ自体は12小節目に帰着することがわかっているからだ。そしてその割り振りは3つの小節を単位としていることが見える。逆算的に考えれば、0小節めも、拍節の「1拍目」である。そして、アウフタクトにある四分音符もその小節の運動によって押し出されるものなのだ。

以前の記事で書いたように、この音楽は0小節目を起点とし、3つの小節という単位を分母とする大きな4拍子なのだ。

その大きな構造がわかっていないとアウフタクトの位置がわからない。だから響きに流されて、このフレーズの位相を把握できないままになってしまう。

つまり、音符を数えた足し算では、音としてはあっていても、その音楽の呼吸は理解できないのだ。

先週話題にしたベートーヴェンop36の冒頭小節もこの問題と同じだ。アウフタクトの32分音符の位置がわからないからこの序奏の形はめちゃくちゃになるのだ。これも鳴っている響きに騙されて、考えもせずに本能的な捉え方をしてしまうから誤認が起きるのだ。

鳴っている音が全てではない。数理的に考えれば、その空白の存在は明らかになる。その空白に正確にリズムを補うことによって形は成り立つ。それは「想像力」の問題ではない。割り算的にフレーズを捉えられれば、ごく当たり前なことになる。

感覚による音響的な把握はこのような失敗に陥る。空間的な構築で捉えようとすると、見えない部分の役割が明確になるのだ。

目の前にあること、目に見える事象だけではダメなのだ。それを成り立たせている仕組み、構造自体が見ようとしないと罠に落ちるのだ。

だから「考える」は大切なのだ。「考える」がなくては感覚に騙されてしまう。そして、薄い捕まえ方しか出来ない。
だが、「考える」があると見え方は構造的に、多角的になる。「無いものは無い」なのではなく、全体的にみた時に「無いけれどそこになくてはならない」に気が付かなければならないのだ。およそ構造的なものはそうやって出来ている。

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