4拍目は反動を利用する〜ブラームス交響曲第4番第2楽章
ブラームスop98の第2楽章の82〜83小節めは、かつての僕のような、リズム音痴には頭を抱えさせられる場面だろう。こういう場面があるから8分音符で数えたくなってしまうのだが。
中学生の時にこの曲に取り憑かれたものだ。ステレオの前で子供らしくエア指揮なんかしてたけど、ここは騙されてしまうんだよな、と幼いながらもその不思議を感じていたのが思い出される。
そもそも80小節めから6拍子とはなんぞやと考えさせられる場面に陥る。付点四分音符支配によるリズム感が強くなるのだ。まるで3/8が二つ並んでいるかのように聞き手のリズム感を狂わせる。
さらに82小節めに罠を置く。ここで弦楽陣に二分音符フレーズに聞こえる変形リズムを弾かせるのだ。そして、それに続けて管楽陣に、あたかも、その5拍目が「1拍目」に聞こえるように主題のリズムを歌わせる。この時点で拍子感覚は騙されてしまう。82小節めではまるで4/8拍子が挿入されたかのような錯覚に陥る。
演奏側までもがこの感覚的なリズム感に流されてしまう例は少なくない。多くの場合、このあたりの6拍子リズム感は完全に消えてしまっている。というより、そもそもこの楽章では始めから6拍子のリズム感が見えていない演奏になっている可能性があるように聞こえる。
6拍子は「3拍子が二つ」並んでいるわけではない。だが、感覚的、本能的な捉え方ではそのように陥ってしまうのだ。4拍めを「1拍め」と認識してしまう時点で、もう罠に堕ちている。
そこで感覚に妥協してしまうから「6拍子」とはなんぞやになってしまうのだ。
まず第2楽章冒頭からだ。
ここでは付点四分音符のフレーズが次の小節のアウフタクトとしての付点四分音符を、4拍めから立ち上げている。このリズム感がなくては4小節の意味がなくなる。
ここは、5小節めから始まる主題が、アウフタクトに溢れおちて歌い始めるというとても官能的で、色艶のある場面だ。この5小節めから始まる主題は小節の4拍子によって支えられている。5小節めアウフタクトから6小節にかけてを括っているスラーが、さらに7小節めのアウフタクトを誘い出している。このフレージングは、その艶のある呼吸を見事に指摘している。
だが、「3拍子」では、ましてや8分音符を数えている感覚では、そのアウフタクトが、単なる数合わせにしかならない。
そもそも、冒頭が主題の開始だとあるいう捉え方も間違えている。これはあくまで前奏である。0小節めを起点とする小節の4拍子による前奏が5小節からの主題を誘い出しているのだ。こういう作品の場面のあり方を捉えられていないと、表情の濃淡が見えてこない。だから、音符の響きに頼ろうとしてしまう。そうやってandante ではなくなってしまう。その遅く沈滞してしまう言い訳を「modrerato」に押し付けたり、「歩くような速さ」が「貴婦人の歩き方が云々」とかになるのは、情け無い姿勢だ。
前奏が内容に深く関わるのは当たり前である。だが、この冒頭を前奏として捉えられないというのは、あまりにも音符に近過ぎる捉え方なのだ。それでは全体像が見えるはずがない。
さて、82小節めの話題に戻そう。
ここに至るには74小節めからの場面変化に対応していかなければならない。ここでは冒頭でのリズム感が求められている。つまり、最初の付点四分音符のリズム感が、次のアウフタクトを呼び出す、その呼応だ。4拍めはあくまで4拍である。シンコペーションのアクセントを伴って現れる反動だ。それを3拍子の2回転ととってしまっては元も子もない。
74小節めは、71小節めから始まる小節の3拍子の続きである。この大きな3拍子は80小節めから小節の4拍子に拡大されて、82小節以降を巻き込んでいくのだ。
80小節めからは付点四分音符分のインパクトが次の小節のアウフタクトを呼び起こす。このリズム感のまま、82小節目にたどり着く。
82小節目では83小節目のアウフタクトを四分音符分として誘い出す。その83小節は同じく84小節めのアウフタクトを四分音符分、誘い出しているのだ。
八分音符を数えているだけの演奏では、このあたりのリズムの醍醐味はまるで伝わらない。場合によっては三拍子や変拍子に聞こえてしまっているかもしれない。
数合わせでは音楽にはならない。さらに言えば、おそらくandante を維持できてはいないだろう。
聞いた記憶のうわなぞりは、こうやって楽譜の狙いを踏み躙っている。それがマジョリティというのだと言われるかもしれないが、それがなんだろう。
この音楽の「6拍子」を体現できる演奏でありたいものだ。
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