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「長くて重い」は把握の失敗。先ず自分の感覚を疑うべき

K.504の序奏の開始はブラームスop15と同じ構造ではできている。すなわち 、これらは2つの小節を分母とする構造であり、その1小節目は0小節目の反動で起きるシンコペーションアクセントをを伴う硬い発音である。

さて、その小節の使われ方が分かると、この開始は

①01②23③45|①67…

という大きな3拍子の骨格でできていることが見えて来る。

そして、16小節目から27小節目の流れも同じ分母による大きな6拍子の弧のなかに収める事ができる。

いや、そもそも、形として理解が、できていない。最初の6小節は7小節めからのフレーズを引き出すための過程である。最初の6小節間は7小節めのアウフタクトを見引き出すための長いきっかけであり、決して本体ではない。だが。音圧で聞かせようとするクラシック演奏の悪い趣味が。その構造に気が付かず本題のように聞かせてしまう。そにために挑戦的な試みでもあるこの序奏を平板なものにしてしまう。ブラームスop68の第2楽章やop98の第4楽章でやらかしているのと同じ演奏の失敗がここに聞かされることは少なくない。このAdagioが重くて長く感じるのも無理はないのだ。子供の頃に家にあったレコードの解説に、どこぞの評論家が、プラハが3つの楽章しかないのは、この序奏が一つの楽章と言えるから、などと書いていたのを覚えている。20世紀にはそのような平板な陳列で誤解されていたんだろうな、と改めて思

さて、この冒頭の発音イメージと序奏の構造が掴めると、よく聞くようなロマン派的Adagioの呪縛から解放される。この序奏が重く長いのは演奏者の把握の誤りであることに気がつくきっかけとなるだろう。それはブラームスop68のun poco sostenuto が重く遅いそれではないのと同じであるのと同じ姿に見える。

たしかにこのAdagioにはドン・ジョバンニの地獄堕ちに通ずるデモーニッシュなものがある。だが、そのドン・ジョバンニでさえ、2/2Andanteであって、20世紀にはとんでもないくらいロマン派てきに的な脚色された田舎芝居になってしまっていたことは忘れてはならない。
このイメージや「Adagioだから重く遅い」というような呪縛から解放されて、音楽を優先して、演奏を考える必要がある。

このK.504 は序奏や第2楽章が長すぎるとか言われがちだ。だが、その欠点の原因を探って見ると、私たちの常識のほうが誤っている可能性があることに気づく。

クラシック演奏の場合、どうしてもお手本から捉えがちだし、それを規範のようにしてしまいがちだ。また愛好者もその観点から比較批評したがる傾向がある。これが閉鎖的になる原因なのだ。
大事なのは、聴いた記憶ではなくて楽譜から可能性を考えることでなくてはならない。イメージやお手本の呪縛から解放されなければ、ものまね選手権の閉鎖性から脱することはできない。

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