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気持ちを込めるは、実は分かっていないからかもしれない

ブラームスop73 の第3楽章を四分音符で執るのは単なる音並べにしかならない。そこに出来上がるのは結果論でしかない。音並べでは、この曲の数字遊び的な面白みはほとんど生かされない。


この一見素朴そうな主題は、小節の4拍子で出来ている。しかし、その形はすぐにくずされていく。4分音符で執っていると、その不思議絵のような不安定さは表に出てこない。というか数えるだけで終わってしまう。


0小節を起点に、小節の4拍子を2回転すると、次は小節の3拍子の3回転、2拍子挿入…と細かい変拍子的な変転が続くと、一区切りつく。


このでこぼこ道を器用に乗り切るところが、この音楽の楽しいところである。


小さい音符を数えて鳴らした結果を「演奏」というのは、烏滸がましい気がしてならないのだ。この辺りに音響と音楽との決定的な違いがある。
演奏は、その道のりをはじめから理解したうえで行われなければならない。
それができていないから、感情とか気持ちとかを音に込めてしまう。背景とかそういう雰囲気で語っているつもりになる。そういう演奏はしたくないものだ。



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