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読むことは自分との戦い

形がわからないから「音並べ」に終わる。その正体不明なものを尤もらしい響きで誤魔化そうとする。それはクラシック音楽演奏にありがちなパターンだ。これには「知っているつもり」も同罪となる。耳馴染んたものを「よく知っている」と高を括ってしまうと、楽譜は見えない。読めない。文章が読めないのと、同じなのだ。つまり、書いてあることを「理解しよう」とする前に「我」の方が強く出てしまい、「知っている知識」が邪魔をしたりするのと同じなのだ。

以前話題にしたベートーヴェンop84序曲もその典型だ。サラバンドのリズムにささえられるこの序奏の音楽は、その形が見えていない演奏者には、その序奏はスペインの暴政に苦しむ精神的な叫びという意味で語ろうとしてしまう。だが、それは「雰囲気」でしかない。

だが、形の見えている者にとってはこの序奏は小節を分母とした4拍子として、圧縮的に語ることが出来る。4拍子が見えているからこそ、音楽の骨格が見える合理的な論理の形としで語られるのだ。 誰にもが、この音楽が古典的な舞曲のパターンを踏んいでることが伝わる。

形がわからない、という状態はその音型が掴めていない。つまり、「論理」の仕組みがわからないということ。だから音しかわからないのだ。

チャイコフスキーop36の象徴的な冒頭も、そこにエピソードを根拠とする文学的な意味を置こうとしがちだ。だが、それは楽譜の読みを解く鍵にはならない。それでは、ここにある「形」は見えてはこない。楽譜を理解するにあたって、そういう蘊蓄は決して役に立つものではない。そういうしたり顔で練習を進めるのも、とても恥ずかしいことだ。

さて、精神論だけで、聴いた記憶をなぞっているだけでは、この冒頭を見る時、小節がひとつの塊のように見えている。
だが、最初の小節は2つのパーツから出来ているのだ。

この小節は「1拍め」の「解放拍」と、次の小節のためのアウフタクトから成っている。別な言い方をすれば、最初の小節の「2、3拍め」は2小節目の「1拍め」と結びついている。
タイで繋がれている付点四分音符分の伸ばしの音は、この音楽を始めるための「きっかけ」なのだ。この付点四分音符分のインパクトが次の小節のアウフタクトを突き出しているのだ。※練習のときに、ここを吹く皆さんにお願いするのは、この付点四分音符分のタイを「テヌートしない」ことだ。むしろ、そのタイは、尖く、やや短めに、とリクエストしているのだが、それはそういう視点からなのだ。

なお、このような長いアウフタクトを押し出すような造りは第1主題にも大きく影響している。

こうして最初の2つの小節が運動的に結びついているのが見える。そういう視点でこの先の楽譜を見ると、この冒頭は「2つの小節」を分母として動いていることに気がつくだろう。そして、例えば7小節めや13小節めから新しいまとまりになるのが分かるので、この音楽の運動は、「2つの小節による大きな3拍子」で出来ていることが明白となる。実に明解な造りで出来ている。特に主部に入る直前の6小節の動きは、解明出来ていていないと雰囲気で終わってしまうものだが、実はこのように綺麗な形として作られているのだ。

文学的、精神的という名の「雰囲気」では、このように良く整理された作品の姿を見ることはできない。ましてや、伝えられはしないのだ。

そのような「想像性」は受け手の立場のもの。演奏や教室が、その想像を先まわって押し付けてしまうのは余計なお世話だ。
先日も書いたようにバルビローリとウィーンフィルによるブラームスの演奏のレコーディングは、作品を楽譜よりも、イメージを優先してしまう「商品」的な一例だろう。もちろん、ステレオ装置の販売普及の時代にはそのようなレコード産業を含むこの界隈の、経営的な、大人の事情も絡む背景はあっただろう。だから、そこに本気で芸術性を見出そうとする事自体に無理がある。現代に至ってはそのことに気がつくべきなのだ。過去のプロデュースの意図に今更振り回されるのは恥ずかしいことなのだ。

音や雰囲気を聴いてしまっているのではないだろうか?

演奏する側にある時は、その自問自答は忘れてはならない。
そして、楽譜を見て試行錯誤していると、何かしらの鍵は見つかるものだ。

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