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タイやスラーへの誤解がリズムの躍動感を殺してしまう原因になる

タイやスラーが複数の音符を繋いでいるとき、繋がっているその括りの最後の音符はその音価の100%を維持しなければならない、と思いがちだ。だが、音符それぞれは単独では音価の100%を鳴らすわけではない。それはスラーやタイで括られている最後の音符でも同じだ。スラーやタイで括られた音符群はそれ全体が一つの息であり、ひとつの弓で発音される「一つの音」になる。つまり、最後の音符は音価の100%を鳴らすわけではない。

このことに気が付かないと、例えばBWV1068の冒頭は節目のない、脈絡を見出すことのできない、秩序のない音響になる。実際、そうなってしまっている演奏は決して少なくない。尤もらしい、なんとなくありがたそうな雰囲気になるが、音楽としての形は見えてこない。それっぽいフレーズが断片的につかめるだけになる。

BWV1068の冒頭のメロディでは、4分音符が4つの16分音符を呑み込んでいる演奏になりがちだ。だが、それは今言ってきたように誤った楽譜の把握である。冒頭の4分音符は16分音符1つとタイで繋がっているが、その音価の100%のステイタイムを要するわけではない。冒頭のタイと3つの16分音符群は、明らかに別々の言葉である。すなわちタイは発音のきっかけであり、それによって立ち上がる3つの16分音符の群は3拍目の4分音符を修飾している。冒頭のタイをきっかけに「3つの16分音符群の装飾音を伴った『4分音符+16分音符のタイ』」が立ち上がる。別な言い方をすると冒頭のタイが「運命の動機」を立ち上げている状態になっている。そういう捉え方ができるとトランペットが鳴らす小節の1拍目と3拍目で8分音符の役割がはっきりする。これらの8分音符はメロディのタイの頭にあるはずの発音としてのアクセントを強調しているのだ。

メロディのこの運動は3小節目の付点4分音符をダンパー替わりに受け取られ、2拍め裏の8分音符から始まる新しい付点リズムのきっかけとなる。この付点リズムの跳躍は8小節目頭にある帰着点までの道のりを案内してくれる。冒頭からここまでの4つの小節が、ここまでの音楽のひとつの節となっている。だが、1番カッコのことを考えると、1小節目の前に「0小節目」が存在することは明らかにされる。つまり、この冒頭は小節が分母となる5拍子であることがわかる。実際、この冒頭部分はこのあと「急」部に達するまで、小節が分母となる5拍子を貫いている。

タイの占める音価を100%使ってしまうような歌い方では小節の5拍子という骨格は決して見えないのだ。

タイやスラーは「結ばれた一つの発音体」である。つまり、ピアノの一つの鍵盤をたたいたように、タイやスラーの発音はその頭から減衰的な発音となっている。逆に言えば、その発音体の頭には、それなりにふさわしいアクセントが存在するのだ。

ブラームスop73第1楽章の136小節目から始まるシンコペーションのフレーズの応酬はこのスラーやタイの考え方ができていないと、単なる音に終わってしまう。シンコペーションが行かせないままに終わる。

1拍分ずれた発音になるこのシンコペーションフレーズでは3つの音符に係るスラーはつぎの小節の1拍目に帰着する、だから、スラーの最後の4分音符に圧力をかけてしまいがちだ。これが間違えの始まりだ。アクセントは次のタイの方にある。

タイやスラーの開始にアクセントを置き、そこから末尾に向けて減衰する発音を心がける。それとともに、この部分の骨格を把握しなければならない。このシンコペーションフレーズは、136小節目から2つの小節を分母とする4拍子でできている。

この骨格が掴めると、実は両バイオリンパートのオクターブユニゾンの進行は上層部の「まやかし」であることがわかる。この部分の主体はむしろ「影」である低弦群の方にある。この影が小節の4拍子の骨格を聞かせ、両バイオリンパートを支える構造を作っている。

この構造は、実は冒頭の第1主題提示の時の応用的な模倣である。冒頭部分は0小節目を含む2つの小節を分母とする6拍子で動いていた。この時もホルンが歌うメロディは必ず低音群による影の方が実態であるホルンの歌を導くように動いていた。
この構造が見えると演奏の時に音響の波に攫われてしまうことがなく、やり通すことができる。

さて、この部分について、もうひとつ面白いのはclとHrとvaによるタイで括られたリズムの連続だ。ここでもタイを長くとりすぎないのがコツだ。そうすることによって「16分音符と付点8分音符」が作る独特なリズムが際立ってくる。これは127小節目あたりから活躍する2つの16分音符の弾みが元ネタになっている。このリズミカルな軽いリズムが、エコーのように鳴り渡り続ける。このエコー効果は、結局は「16分音符と付点8分音符」が作るリズムが大事なのであって、タイの音符を響かせることに意味はない。

また、このエコー効果を生かすためには、テンポが遅いのは曲調にはそぐわない。推進力がないと、シンコペーションも、1拍ずらしている効果が表れない。

逆に、音響を乗り越えてそういう効果が読めるようになると、三角3拍子の遅いテンポは、リズム感の悪さを開き直っている演奏にしか聞けてこない。遅めのテンポでたっぷりと鳴らす演奏っていうのは、世間的なブラームス像と結びつきやすく商業的には売り出しやすい演奏なんだろう。でも、それは楽譜から見ればハテ?でしかない。



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