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振っているというよりも、美しい音楽をしているという実感がする瞬間

ベートーヴェンop125第4楽章の神秘的な3/2Adagioは、テンポ72のmaesutosoと、さらに神妙なテンポ60のma non troppo,ma divoto との2つの場面を持っている。

だが、このAdagioが遅すぎて、論理を保てていない、さらにこの2箇所の変化が見えないという失態に陥りやすい。レコードなどで聴いていた、1970年代ごろまでのバッハ演奏が重すぎたのと同じで、このadagioも、もはや数合わせの音並べにしかなっていないのだ。

耳で聴いた記憶を捨てて、楽譜からのみ再構築を図る。このAdagio部の形を捉え直したい。

6/8による軽やかな歓喜の主題の大合唱は2つの小節を分母とする6拍子を帰着しないままで休止させられる。上に乗り投げられた状態で終わる。

それが落下してきたインパクトに反応してトロンボーンと低弦群がシンコペーションでG音をぶつけてくる。

このG音は不完全小節で書かれている。だが、先のフェルマータの解除を振り下ろすことが、そのG音の発音のきっかけとなる。そこはすでに3/2の小節と理解するべきである。
この小節へのインパクトをきっかけに、2つの小節を分母とする4拍子で、このAdagioフレーズを歌い出される。

ここで4拍子の枠組みが見えていないと、音符の数合わせにしかならなくなる。

そして、Adagio maesutoso はこの4つの小節を分母とした、さらに大きな4拍子弧で括られている。

この大きな4拍子の揺らぎが生きてくると602小節めからの、伴奏の4分音符と2つの8分音符がつくるリズムが生きた呼吸を蘇らせる。決して死んだように重い音響が並ぶのではないのだ。

ステップを少し軽めにすると、むしろ3拍子の舞曲風のリズム感が生きてくる。ここで3/2拍子を置いた意味が生きているのが実感出来る。というよりも、なぜ3拍子なのかなのだ。このMaesutosoは、もちろん軽やかなダンスのはずはない。けれども、荘重な、ゆったりとした舞曲的な動きを底辺にした音楽なのだ。それ故の3拍子なのだ。

3拍子鼓動を持つ小節2つを分母にした4拍子という形が見え、さらに大きな4拍子の構造が見えると、このAdagio Maesutosoが、よくある音響の羅列の雰囲気だけの尤もらしさから解放される。音楽としての形と流れとしての論理が明確になる。

響きに聴き入る精神的な修行ではなく、音楽をしている。そんな実感に包まれる美しい瞬間なのである。

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