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迷い道の入口

ブラームスop73第1楽章提示部の反復が省略されがちなのは、SPレコード文化の名残ともいえるが、もう一つには不自然を感じる強引さがあるようにも取れるからだろう。だが、提示部の省略は作品の設定に狙いとしては残念なことなのだ。

提示部の反復は形式的なもので、主題を覚えてもらうためにある、などとしたり顔をする人たちもいるが、この作品は反復という条件を逆に利用しているおもしろさがあるからだ。

この反復の箇所の拍節はかなり凝っている。1番カッコと2番カッコとでは拍節が違うように作られているのだ。1番カッコは秘密の抜け穴のような不思議さがある。昨日の記事で書いたように、提示部後半は、形を捉えて聞く聞き手に、自分の位置を見えなくするような仕掛けがある。
自分の居場所をわからなくするという遊びは、ハイドンがHob1-82や90の第4楽章でもやっているような仕掛けだ。
ただこの曲の場合、問題は演奏者側がその拍節の違いを上手く活かしていけるかどうかにかかっている。

さて、反復の前の分かれ目は173小節めにある。

ここから2番カッコに進む場合、つまり反復しない場合、音楽は2つの小節を分母にする4拍子で流れる。これはごく自然に聴こえるだろう。第2主題自体が基本形は4拍子であることもある。

だが、反復して1番カッコに進む場合は2つの小節を分母にする6拍子となる。そして、余る、反復の直前2小節分を踏み台にして頭に戻る。

ここで6拍子を執るのは第1主題の基本形がそれだからだ。

①01 ②23 ③45 ④67 ⑤8 9 ⑥10 11 |①12⋯

1番カッコでは、あらかじめ、その呼吸に戻している。1番カッコの最後の2つの小節を、拍節の1拍目に置いて、反復が実行されるように仕組まれているのだ。

ここに至る前に3拍子拍節を2回転入れていることによって準備も用意周到だ。このあたりはベートーヴェンop125のフィナーレで、maestosoの挿入のための準備のようなテクニックの鮮やかさがある。

だが、問題は、この楽章の冒頭をどう捉えていたかに関わる。2小節目からのホルンの歌を拍節の1拍目として聴いてしまっていると、この1番カッコの最後がもたついて、あるいは足りなく聴こえるのだ。

これも作品に仕掛けられた罠なのだが。

反復を省略してしまうと、作品が狙う迷子を作る道が減ってしまう。

把握の失敗のために反復が不自然なのでやめてしまうという判断も含めて、それはとても悔しいことではないだろうか。

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