見出し画像

社会性を身につけるとは。目的化するといい子症候群になる。

YouTubeの広告で、「社会性を身につける」というテロップで、子ども同士が「どうぞ」「ありがとう」とおもちゃを手渡すというのをが流れてきました。

うまくやることを目的化していいのか

親としてはうっとなりますね、こういう広告。
友達とできればケンカはしてほしくないし、仲良くしてほしいと誰しもが思います。

社会性を身につけて、色んな人とうまく関わっていける子に育ってほしいと願うと思います。

でも、社会性って、結果として身につくものであって、目的として身に付けさせるものではないと私は思っています。(できなくはないけど、社会性を目的化して身に付けさせるのはとても難しいと思います。)

「かして」「いいよ」は技術でしかない

遊び場とか子どもの居場所に行くと、いますよね。「かして」「いいよ」と言っている子。
「いいよ」とは言いつつ、本心ではなさそう。

譲り合って遊ぶ場では確かにそうするのが正解ではあります。が、最初からその正解をできるのが子どもの育ちにとって望ましいことでしょうか。

こういう場ではこう言っておくといいんだという技術を身に着けているだけであって、これは社会性とは言えないのではないかとおもいます。

むしろ他者に対して自分を抑えすぎていて、社会性としてはアンバランスになっていると思います。

社会性を目的化すると、処世術ばかりが身について、自他のバランスがとれた社会性は育ちにくいのではないかと考えています。

処世術に長けた子、つまりはいい子症候群の子です。(いい子症候群は金間大介先生の本から。)

大人はどう正解を伝えていくか

とはいっても、遊び場にはマナーがあって、譲り合うのが正解なわけです。じゃあ大人はどう正解を子どもに伝えていくか。

私も試行錯誤中ですが、大人は正解を提案するにとどめる、というのが今の答えです。

こういうマナーがあるんだ、だからこうしてほしいな、どう?もうすこし遊びたいんだったら、あとどれくらい遊ぶ?使いたい子とお話して一緒に決めるのはどう?

大人が知っている正解を選択肢として伝えて、どうするかは子どもが自分で決める。

手間がかかりますが、子どもが自分で選んだ行動の結果を受け取って、それを繰り返しながら自分の中で社会性を育てていくのだと思います。

待つこと、ただ見守ること

大人からすると、回り道をして非効率に見えるかもしれません。でも、自分もそうやって実験しながら成長してきたと思うのです。

こうしたほうがいいよ、と言いたくなります。親心というやつかもしれないですね。

でも、本人が選んで決めて試行錯誤するのを手出し口出ししないでただ見守ることこそ、本当の親心なんだろうな、と思っていつも耐えています。見守ることってタフさが必要ですね。

子どもが社会性を育むために、大人は提案するにとどめて、後は見守る。心の余裕をもって毎日実践につとめています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集