【2024 読了 No.38】『池上彰と学ぶ日本の総理20 山本権兵衛・原敬』(小学館ウィークリーブック)読了。
交通事故💥🚗に遇って、入院中。
愛犬は無事保健所が家から保護してくれて、ブリーダーに返すことになった。
天塩にかけた犬との別れは辛いが、犬の命が一番大切。いい方に引き取られて欲しいと願うしかない。
今自分が出きることは、リハビリと職場復帰を急ぐこと、本職の日本史や新科目の歴史総合の勉強。
できることを精一杯やるしかない。
◆・◇・◆・◇・◆
原敬が、官僚の経験に加えて、外交官やジャーナリストの経験も豊かだったとはこの冊子を読むまで知らなかった。
横浜毎日新聞にいたとき、明治14(1881)年の政変で下野した大隈重信がこの新聞社を買収し、大隈の息のかかった尾崎行雄と犬養毅を送ってきて、大隈の急進的な考えに同調できない原は嫌になってやめてそうだ。その後も大隈とは合わなかった。
この後井上馨の紹介で1882年から外務省に勤め外交官として経験を積むが、1888年大隈が外務大臣になると帰国後外務省から農商努省に転じた。その後の農商務大臣になった陸奥宗光に信頼されるようになった。当然のように1894年の陸奥宗光の条約改正には部下として関わり、1895年には外務次官になっている。しかし、いわゆる松隈内閣で大隈が外務大臣になると、原は外務省を干され、1897年に陸奥が病死すると、外務省を転じ辞し、同年ジャーナリストとして大阪毎日新聞に入り翌年社長に就任。原の紙面改革で大阪毎日新聞は部数を伸ばしたという。
そんな原に目を付けたのが新党立憲政友会準備をしていた伊藤博文。伊藤は原に政友会組織の一切の事務を託したいと申し出た。原はこれを機に大阪毎日新聞を辞め政界入りした。
【2024 読了 No.36】の感想文で、
「寺内正毅はシベリア出兵を決定した首相として知られるが、シベリア出兵を決めるまでの経緯が、とても詳しくて分かりやすかった。
シベリア出兵に対して、原敬が最も積極的だったという話をどっかの本で読んだが、初めは慎重論を唱えていたのだが、アメリカが孤立していたチェコスロバキア軍の救出を名目に共同出兵を提案したとき、掌を返すように賛成にまわったらしい。」と書き、原のことを正直「節操ねぇな」と思ってしまったが、この原の本を読むと、原がシベリア出兵に賛成したのは、原の対米協調路線故であると分かった。原は第1次西園寺内閣の内務大臣を務めていたが、同内閣の総辞職後、半年程の外遊を行い、アメリカの活力に注目していたという背景があったわけである。
今でこそ、アメリカに活力があるのは当たり前だが、原の外遊は第一次世界大戦前であると考えると、原の慧眼と言えるかもしれない。
近現代史上の政治家は分かれば分かる程尊敬の念が高まる。ろくに勉強せずに安易に歴史上の人物の批判に走るような安直な授業は慎まなければいけないと思った。
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