栗山英樹著『栗山ノート2』(光文社)読了
前作『栗山ノート』は中国の古典や経営の偉人らの言葉の紹介が主だった。
それに対し、こちらはWBC監督としての苦悩や決断の場面で、どのような言葉によってどのように励まされたり、気持ちを整えてきたかが時系列通りに書かれている。
いわば、古典や偉人の名言のハウツー版であり、かつ監督業の舞台裏も知ることもできてとても面白かった。
でも、前作を読んでいたからこそ楽しめた部分はあるな。
前作で紹介されていなかった『礼記』の「学びて然るのちに足らざるを知る」が入っていたのも嬉しかった。これ、私の大学院時代からの座右の銘で、予備校の通常授業の最終日に生徒に伝えている言葉である。
「もし、君達が『自分は勉強不足だ』と感じるなら、それは勉強してきた証拠だよ」と(犬に言わせる形でプリントに、フリスビーと苦闘するうちの犬の写真に添えて)伝えている。
生徒の中には瞬間に「あぁっ」とばかりに感嘆する者もいる。ちなみに、何故かこの言葉に感じ入るのは圧倒的に男子ばかりw
そもそも、勉強全然してない人は「自分は勉強不足だ」と感じることすらできない。
私が日本史を専攻すると決めたのは17歳のときだが、それから40年以上も日本史やっている。だが、日々、書籍や教材やネット記事等を参照する度に、「知らなかったぁ~そうか!そういうことかぁ~」と感心する内容に出逢う。
閑話休題。
この本の内容に戻ろう。
この本で私が最も感銘を受けた言葉は、晏子(晏嬰)の「益はなくても意味はある」とその栗山氏自身の解説である。
自分の仕事における直近の悩みとその解決と全くシンクロした内容であったからである。
晏子は中国の春秋時代の斉国の宰相で、斉に仕官を希望してきた、孔子を不採用にしたことでも知られる人である(先見の明無いじゃんw
それとも自分の地位を脅かされると思って不採用にしたのかな🤪)。
栗山氏はWBC日本代表の監督として立場上、超一流の選手たちに、彼ら本来のポジション以外の複数のポジションを準備させざるを得ない。
その苦悩を描いた後に、「益はなくても意味はある」を紹介している。
外野手が本職の選手が内野手を経験することで、内野手の気持ちがわかる。より具体的に言えば、外野手からの返球の中継プレーのカットマンを経験することで、内野手にはどんなボールを投げれば取りやすいかを肌で感じることができる。
「違う仕事を経験したことで、自分の仕事の精度が上がる」わけである。
「いますぐ有益ではないけど、のちに役立つという経験があります。だからこそ、3000年も前から、『益はなくとも意味はある』と言い伝えられているのでしょう。」
古典の価値はそこにある。
幾星霜を経て猶現代人の我々の心を動かす言葉に出逢えるわけであるから。