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田口ランディ『ハーモニーの幸せ』を読んで 『喜びの共有』

著者が重度の身体障害者の方の在宅介護をしていたときの苦労話である。

立場的に弱い人を助けるときに、自分を上に見てしまうことはよくあるし、そういう人も世の中にはたくさんいる。相手を思いやることは大切なことなのだが、それが相手から傲慢な態度に思われてしまうというリスクは確かに存在するし、相手がそう思ってしまうのは、やはり本人も傲慢な態度を取っているからなのだろう。弱い立場の人間はそういう人の臭いがすぐにわかるようだ。「理想に燃えているおせっかいな人間は、妙に明るく押しが強いものである。そういう人に、落ち込んでいて気の弱い人は負けてしまうのだ」と著者は言っている。だから介護する側はそのことを肝に銘じる必要があるのだろう。

この経験から著者は、「他人の痛みは絶対にわからないのだ。同じように自分の痛みも絶対にわかってもらえないのだ。人間は個別に体をもって生きている。肉体の痛みを共有することはできない。精神の痛みも然り、である」と思うと同時に、「私は彼女の介護をやめてから、他人の不幸は担わない、ということを肝に銘じた。他人がどんなに痛くて、不幸であっても、それを私が肩代わりすることはできない。私はキリストでもマリア様でもない。ただの人間なのだ。まずは、自分のことだ。自分のことをちゃんとやって、自分の精神状態を維持できないのなら、人のことに手を出すのはやめるべきだ、と肝に銘じた」と決めた。

著者は、自分の精神状態を維持するために他人を利用しようとしていたことに気づいたのだ。

「私は私としてしか世界を感じることができない。私が元気なら世界はいつも輝いているのである。だとすれば、私のことを最優先に気持ちよくさせることが、まずは他人を気持ちよくさせるための第一歩であろうと、私は思」う。

普通、人は面倒を見てあげている(上から目線)人に不満なことを言われたら、相手を偏屈だと思ってしまう。著者がいかに自己分析に慣れているのかがわかる。

自分を最優先するというと、エゴイストだと思われてしまいがちではあるが、まずは自分が喜びを感じることは大切なことだ。悲しい人間が他人を喜ばせることはできないのだから。

「人間が絶望したとき、その、どん底にあるとき、生きる力になるのは、喜びの記憶なの」だ。

「感受性をもって、誰かと喜びを共有すること。それだけでいいんだ。それだけで十分なんだ」、「いっしょに喜び合えない相手に、悲しみだけわかってもらうことは、私にはできないのだな、と痛感した。喜び合えるということの先に、悲しみをゆだねる何かが生まれてくるのだ」と著者は述べている。

悲しみを共有するのは難しいが、喜びを共有することはできる。人間関係に上下はなく、同じ目線に立って、喜びを分かち合うことから始めれば、人間関係もうまくいくのだろう。

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