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求めずともそこにある
衆生近きをしらずして
遠くを求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶごとくなり
皆さんは、この言葉を知っていますか?
これは臨済宗の高僧である白隠禅師の言葉です。
これは、まさに今現代の私たちの事を言っているかのように私には感じます。
私たちは、自分の足下を見ずに、遠くに視点を移して、その遠くに何かがあることをいつも期待して生きている。
しっかりと自分の足下を見れば、そこには必要なものはある。
でも、それに気づく事はなかなか難しい。
私たちの求めるものは、何故か自分から遠く離れたところにあると、そう言った幻想を私たちはもっています。
なので、今自分が何を持っているのか?自分の足下には何があるのか?
今自分が置かれている状況はいかなるものなのか?と言うことを私たちは何も見ようとしません。
自分というものを全くもって俯瞰出来ていません。
内ではなく、外しか見ていないと言うことになります。
白隠禅師は、何も求める事はない。だって、あなたの求めるその全てをもうあなたはすでに持っているのだからとそう言います。
だから、自分が何を持っているのか?つまり、自分の足下をよく見てごらんとそう言うのです。
自分をよーく見たときには、そこには何も不満はないはず。なぜなら、その自分には、必要なものは全て与えられてあるから。そう白隠禅師は言います。
そこにあるんだから、求める必要なんてない。むしろ何故求めるのか?とそう白隠禅師に問われているそんな気がします。
あるということ、その事に気づく事が出来れば、私たちの心はぐっと楽になります。だって何も探す必要はないのですから。
人間というのは、不思議なもので、あえて自分自身に波風立てて生きている様に最近思えてなりません。
ずーっと穏やかでいられる。でも、その穏やかな時間や空間を、私たち人間というのは、どういうわけか、崩そう、乱そうとする。
いろいろな現象を見て居ると、なんだかそういう風にしか思えない。
乱すこと、混乱させる事、それが並列して、誰が一番人の心をあらぶらせ、混乱させる事が出来るか?という戦いを日々、多くの人がしている様に思えてならない。
くだらない。ただひたすらくだらない。
わたしたち人間というのは、もしかしたら、本当にくだらない生き物というか、そう言った一側面を持つものなのかもしれない。
このくだらなさが、人間の全てを決める訳ではないが、私からしたら、このくだらないという側面が、多くの人の心の大部分を今は締めているように最近は思えて仕方がない。
探す必要のないものを、レースの様にして探させ、そして、皆、そのレースに疲れて疲弊していく。
そうなると、その疲弊したレーサーたちは、自分の中にある穏やかさをなくし、そして、その内面を激しくあらぶらせる。そしてこの一人の心のあらぶりが、今世界中に広がり続けている。そんな気がしてならない。
誰が一体このチキンレースを作ったのか?誰が、今ここではなく、遙か向こうに宝があるとそう言ったのか?これは私にとって永遠の謎だ。
彼らは一体何を目指して、その指を遠くに差し向けるのか?